84 クライフ・フットボールの再来か(クラブ創立百周年)

1997年の夏、すでにボビー・ロブソンはバルサの監督を更迭されている。彼が監督に就任した1996−97シーズン、獲得が可能だった4つのタイトルのうちレコパ、スーペルコパ・エスパーニャ、そして国王杯という3つののタイトルを獲得しながらも、シーズン終了後に監督としての座を更迭された。もう少しのところで逃した唯一のタイトル、それはカペーロ率いるレアル・マドリに持って行かれたリーグ優勝だけだったにも関わらず。

ボビー・ロブソンが来たときと違い、多くのバルセロニスタにとってこの新たなシーズンにやって来た監督に関しては一切の履歴説明が必要なかった。これまでどこのクラブに何年間在籍し、どのような成績を残してきたのか、そしていくつのタイトルを獲得してきたのか、好むシステムはどのようなものか、ロブソンが来たときにおこなわれたそういうくどいまでの経歴の紹介は一切必要ない人物だった。ルイス・バンガール、あのアヤックスから来た監督、それだけでじゅうぶんだったからだ。

かつてグアルディオーラがインタビューで語ったように、いつかは“あのアヤックス”のように戦いたい、その想いは多くのソシオにしても同じだったのだろう。あのアヤックス、それは1995年ヨーロッパチャンピオンに輝いた栄光のアヤックスを指す。アテネでの決勝戦でバルサを徹底的に沈めたカペーロ率いるミランをうち敗ったアヤックス、そのアヤックスの監督であったバンガールがバルサに来るということは再びクライフが築いた“ドリームチーム”の再編が可能となるのではないか、そう信じ、そう期待し、そのように夢みた多くのバルセロニスタがいたとしても不思議ではなかった。それでなければ、バンガールが監督を務めることになる最初のシーズン、つまり1997−98シーズンの開幕前のプレゼンテーションに、10万バルセロニスタがカンプノウを埋め尽くした事実を説明できなくなる。

このシーズンから3年間にわたってバルサの監督を務めることになるバンガールはその3年間で2年連続リーグ制覇を遂げながらも、結果的に多くの批判を浴びることになる。多くの批判、つまり各メディアに始まり多くのバルセロニスタの批判に終わるそのバリエーション溢れるバンガール批判に関しては、当時の時代背景を考慮に入れないとうまく理解できない。

クライフが監督に就任するまで、バルサはリーグ開設以来、つまりリーグ制度が開設されてからの60年間のその歴史において10回しか優勝を飾っていないクラブだった。古い世代のソシオの人々にとって、つまり若いソシオにとっては両親や祖父にあたる古い世代の人々には、リーグ優勝とは6年に1回ぐらいしかやって来ないものとなっていた。バルサのチームカラーとしてのスペクタクルなフットボールは歴史を通じて常にあったものの、リーグタイトル獲得には20年間も待たなければならなかった古いソシオたちもいる。だがクライフ監督誕生以降にバルサにのめり込む若い世代にとって、バルサとはクライフ・バンガール体制を含め10年に6回もリーグのカップを獲得したクラブとなる。そしてスペクタクルとタイトルは常に同義語であると信じて育った世代でもあった。ロブソンバルサにスペクタクルを望むのは無理だと理解したのは古いソシオも若いソシオも同じだ。なぜなら監督がロブソンだからだ。だがバンガールが監督であるのなら、あのアヤックスの監督であったバンガールが監督であるのなら、ドリームチームと同じようなスペクタクルを期待するのは当然ではないか、そう思う若いバルセロニスタ。

バルサというクラブを包んでいたこの時代の背景はとてつもなく複雑だ。バルセロニスタの間で、その世代を問わずクライフ派とヌニェス派に大きく二分割されていた時代であった。それは同時に各種のメディアにしても同じことだった。クライフ派とヌニェス派に別れてしまった各メディア。ヌニェス・バンガール体制は当然ながらクライフ派によってことあるごとに批判・中傷されていく。それらのメディアが押し上げたのが“エレファン・ブラウ”と称した反ヌニェス派であり、ジョアン・ラポルタを先頭にことあるごとにクラブ首脳陣への追及がなされていく。もちろんその背景にはクライフがいたことは触れるまでもないだろう。メディアが音頭取りをし、それにファンが乗っていく、そういう時代であった。

このような背景を考えるとき、確かにロブソンにとっては“難しいバルサ”となったであろうが、バンガールにとってはロブソンのそれとは比較にならないほどのとてつもなく難しい状況に置かれてしまったことになる。クライフの再来と期待されたバンガール、それは勝手にバルセロニスタが夢みたものであれ、彼は常にクライフバルサと比較される立場となってしまった。同じオランダ人監督であり、同じアヤックス学校卒業の超エリートであり、そして何よりも彼らのプレゼンテーションはスペクタクルという名と共にあったのだから。

多くのバルセロニスタとメディアが知るクライフフットボール、それは試合を見ている側にとってはまるで選手が約束事などなしに自由奔放にポジション変化をするフットボールであり、必要とあればグランドの隅から隅まで動きまわる選手たちが繰り広げるフットボールであり、ボール支配はスペースを見つけるために展開されるものであるから縦のラインを行き来する奥行きのあるボール回しが展開されるフットボールであり、そして何よりも、最後の最後に勝利をつかむスリリング溢れるスペクタクルなフットボールであった。

そして、多くのバルセロニスタとメディアが理解したバンガールフットボール。それは、選手同士の約束事がキッチリと目に見え、まるでロボットのように己の役割のみに専念するフットボールであり、行動範囲が5m四方と決められ決してポジション変化などは許されないフットボールであり、ボール支配がすなわちゲーム支配だという強迫観念のもとにボールが窮屈にグランドを走り回るフットボールであり、そして、多くの場合ドラマのない退屈な90分間の試合展開によるフットボールだ。

カタルーニャ州内で放映される全国・地方局をすべて含めたテレビ・ラジオ番組で、バルサに関するニュース時間を総合すると何と1日で24時間にも達すると言われている。まるで洪水のように大量に流されるバルサに関するニュース、そのニュースを流すメディアにとってバンガールは決して扱いやすい人間でもなければスムーズに会話がおこなえる監督でもなかった。常にメディアと衝突したバンガール、それはバルセロニスタにとっても気持ちの良いものであり得るわけがなかった。

いずれにしても、チャンピオンズリーグではまったく良いところなく終わったとは言え、2年連続リーグ優勝を飾りながらもクラブ史上例を見ないほど多くの人々から批判されたバンガール。その理由を彼がバルサの監督として在籍した時代の背景によるもの、あるいは歴史のいたずらとしてかたづけるには安易すぎるかも知れない。だがその安易過ぎる理由も否定できない事実の一つであることは間違いないことだ。時代の背景、それは大量の外国人選手獲得が可能となったボスマン判決が決して無関係ではない。