LA MASIA - グアルディオラ編 -(2000/11/26)

1992年の夏。バルセロナオリンピックもすでに後半の山場にきていた。CAMP NOU では地元スペインとポーランドによるフットボールの決勝戦がおこなわれていた。関係者は何日も前から、この試合に人々が足を運ぶかどうか懸念していた。未だかつてナショナルチームの試合で、 CAMP NOU が満員になってことは一度もないからだ。もっとも82年ワールドカップの開会式を除いてだが。だが関係者の心配をよそに CAMP NOU は立錐の余地もないほど埋まっていた。試合は1−1ともつれたまま後半40分を過ぎる。だが終了間際 Kiko(現 At.Madrid) の得点により劇的なスペインのオリンピック初優勝が決まる。Toni ( 現 At.Madrid)、Canizares ( 現 Valencia)、Amavisca ( 現 Santander)、 Ferrer ( 現 Chelsea) などに混じって Alfonso や Luis Enrique、Abelardo が抱き合って喜んでいる。そして少し離れたところで興奮気味に Guardiola (pep) が新聞記者のインタビューに答えていた。

「信じられない。全く信じられないよ。今年は最終戦でリーグ優勝したし、初のヨーロッパチャンピオンにもなれたし、今こうしてオリンピック金メダルもとれた。一体どうなってんだろう。信じられないよ、本当に信じられない」

Josep Guardiola Sala 、皆に Pep と呼ばれるこの若者は、バルセロナから北西に約50kmいったマンレッサという町から、さらに少し離れた小さな村サンペドールで、1971年1月18日に生まれている。つまりカタラン人である。その意味で彼は Amor と比較されるより、同じカタラン人の Rexach(現バルサスタッフ)の再来として見る人が多い。Rexach は70年代 Cruyff と一緒にバルサでプレーし、ナショナルチーム常連の有名選手であるが、カタルーニャでは「バルサの息子」として伝説の人物でもある。

Pep は中学に上がったときに、マンレッサにある Gimnastic という小さなクラブに所属する。彼の夢はいつの日かバルサの選手になることだった。生まれつきの Cule だ。毎日の練習に明け暮れるそんなある日、コーチに呼び出された。個人的に呼ばれたことなど今まで一度もなかったので、こわごわとコーチの前に立った.
「なんでしょうか」
「実はバルサから連絡が入って、テストを受けてみないかということなんだが」
「・・・・・」Pep は声がでなかった。
フットボール少年部責任者 Oriol Tort はこの時のことを次のように語る。「マンレッサにいるスカウトから連絡が入って、是非見てもらいたい子がいる、というんだ。そこで少年部の責任者に見に行ってもらったら、小学生みたいな体型なのだけれどセンスがすごく良いと言う。で、とりあえずバルセロナに来てもらって、テストを受けてもらおうかという事になったんだ。」

Pep は回想する。
「あの日のことは今でも昨日のことのように覚えているよ。テストには両親とクラブのコーチがついてきてくれたんだ。そのテストというのは試合形式でおこなわれたんだ。でもあがっちゃって、何が何だか分からないうちに終わってしまった。多分一回もボールに触ることができなかったような気がする」
納得がいかないまま、テストが終わった Pep に 対しバルサ関係者は、そのうち連絡するからという。「まず間違いなくダメだね」自宅へ帰る途中、両親にそう言ったPep はもうほとんどあきらめていたようだ。その彼に2週間後、通知が届く。
「びっくりしたよ、あの時は。だってもう一回テストを受けに来いっていうんだもの。もうだめだと思っていたのに」
その2回目のテストも、結局何が何だか分からないうちに終わってしまう。小さな村からでてきたこの12才の少年は、プレッシャーに押しつぶされてしまっていた。
だが、2週間後に郵便ベルは二度鳴る。もう一度テストを受けにこいというものだった。「これは人生最後のチャンスだ」と12才の少年は思う。もう開き直っていた。「2回もチャンスをもらって、その度に無駄にしてきたんだから。結果はどうあろうと自分の知っていることを全てはきだして、納得のいくプレーをすれば良い」と自分に言い聞かせる。
3回目のテストがおこなわれた。Pep はラッキーにも好きな4番のポジションを与えられる。今回は何も考えないで、試合に集中できた。ゴールまで決めることになる。よし、これで何も後悔することはない。自分のすべてを出し切れたような気がした。

2週間たった。後悔はないものの、クラブからの連絡もない。
「お母さんに言ったんだ、今度は連絡さえないかも知れないねって」
その1週間後に「奇跡の通知」がやってくる。今度は4回目のテストの知らせではなかった。「あなたと契約についての話し合いをしたい」というものであった。こうして Pep Guardiola は1984年9月1日、13才にして LA MASIA の門をくぐることになる。

LA MASIA にはいったものの、Pep の目立ったものといえば体の小ささと、口が達者という点であった。体が小さく細いため、彼は16才以下のセレクションにも選ばれなかったし、18才以下のそれにもついに選ばれることはなかった。心配したコーチが彼にジム通いを命じるのは、入寮してから2、3年後のことだった。それから Pep は皆と同じ練習をこなし、さらにジムにかよう日々を繰り返すことになる。

そんな彼にチャンスがやって来たのは、LA MASIA の門をくぐってから6年後、Cruyff 就任後2年目の冬だった。

Ronaldo Koeman は大けがをしていた。半年先に復帰できるかどうかという重傷であった。彼の穴を埋めていたのは、Pep の先輩である Amor であった。だがその彼も通算5枚目のイエローカードをもらい次の試合には出場できない。Cruyff にとって、そしてもちろん Pep にとってまたとないチャンスであった。
Cruyff はバルサB にいる4番の選手をいつか1部で試してみようと、そのチャンスをうかがっていた。彼は Pep のことを次のように語る。「ボールのコントロールやパスが非常に速いし、それにも増して頭の回転がとても速いのが彼の特徴だ。ボールが足に触る前に、どこにパスをだせば良いのか分かってる数少ないプレイヤー」

1990年12月16日、対 Cadiz 戦でデビューをかざったのち、バルサB と1部を行ったり来たりしながら、徐々にレギュラーポジションを獲得していくことになる。
「僕のフットボールテクニックの原点は、小さい村に生まれ育ったことだと思う。石っころだらけの道で、家の壁に向かってボールを蹴るのが子供の頃の日常生活だったんだ。都会に生まれなかったことは、本当にラッキーなことだと思っている」

1992年は彼にとって、特別な年であった。リーグでは奇跡的な逆転優勝、ウエンブリーでバルサ初のヨーロッパチャンピオンに輝き、その上バルセロナオリンピックでのスペイン初金メダル。最高の年であった。
そして LA MASIA でこれらの活躍をテレビで観戦し、明日を夢見る若者の中に、入寮1年目にして「天才児」として早くも注目され始めた、Ivan de la Pen~a がいた。

[ 参考資料 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)
       Historia del F.C.Barcelona 1974/1993 (Jaume Sobreques i Callico)
       Del Genio al Malgenio (Ramon Besa)
[ 写真転載 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)