LA MASIA - ジョルディ/セルジ編-(2000/12/17)

Johan Jordi Cruyff, 1974年2月9日生まれ。
Sergi Barjuan Esclusa, 1971年12月28日生まれ。
この二人が1988年、Cruyff の監督就任に前後してバルサのカンテラとなる。Jordi 14才、Sergi 16才だった。

Cruyff が73ー74年のシーズンにバルサの選手として契約した年、3番目の子供が産まれた。その子の名前を Jordi とつける。それはオランダではまったくと言っていいほど存在しない名前だったが、その理由を彼は次のように語る「暖かく私達を迎えてくれたバルセロナ、カタルーニャの人々に感謝の意味をこめてつけたんです」。そう、Jordi という名前はカタルーニャ地方特有のものだった。ちなみに、彼もChapi と同じ理由で LA MASIA には足を踏み入れていない。

一方Sergi はバルセロナ市内からほんの少しだけ離れた Les Franqueses という町で生まれ育っている。したがって彼にも LA MASIA に入る必要はなかった。ただ、彼はあこがれの LA MASIA に入ることが、そもそもバルサと契約した動機でもあった。彼を「発掘」したTort をはじめクラブ関係者は、自宅が近くにあることや、16才という年齢を考えると LA MASIA に入れることはどうも不自然に思えた。が、Sergi はどうしても折れない。結局クラブ側が「特例」として、入寮を許すことになった。Sergi は額に光る汗を拭うこともせず、あこがれの LA MASIA へ向けて怒濤のように走っていった。

そう、Sergi の唯一ずば抜けていた特徴は足の速さだった。スカウト達は彼が Granollers というクラブで前衛として40点も50点もゴールを入れていたその才能を買ったわけではなく、他の選手をよせつけない、群を抜く足の速さに魅了されたのだ。「左の Chapi になれるかも知れない」クラブ関係者はそう思った。ちなみに Sergi の親友だった Antoni Jimenez, 通称Toni(現 At.Madrid)というキーパーの選手もバルサのカンテラに入ったものの、鳴かず飛ばずのまま、いつの間にか消えていった。
Sergi はひたすら走っている。が、1部のコーチ達の眼にはなかなか止まらない。それは彼の足があまりにも速すぎて眼に止まらなかったからではなく、Cruyff とそのスタッフ達はあまり走るだけの選手は好きではなかった。というか、あまり評価されなかった。ワンタッチフットボールの基本はボールが走ることで、人が走ることではない。ボールはどんなに足の速い陸上選手よりも、目的地に早く到着する。したがって、ワンタッチでボールを確実に目的の場所へ、しかも早く出せる選手が良いプレーヤーであった。「Sergi はボールタッチを学ばなければならない」それがコーチ達の意見であった。

一方 Jordi の方は、どこに行っても目立つ存在だった。それはスポーツ選手としては異常に細い体だったことや、スペインには珍しい金髪をなびかせていたということ以上に、彼の持っている苗字からだった。彼はどこに行っても「Cruyff」の息子の Jordi だった。
「それはある意味では、どうしても避けられないことだと分かっていました。Ajax のカンテラにいる時でもそうだったし・・・。人々は有名な父を持ってラッキーだと思うかもしれないけれど、僕には、肯定的な部分より否定的な部分の方が、圧倒的に多いような気がする。それでも、もちろん Cruyff 家の一員として、誇りをもっています。両親はどんなに忙しくても時間をさいて練習や試合を見に来てくれたし、特に父は具体的なアドバイスもしてくれるしね」
Jordi は93ー94シーズンにバルサ B に昇格し、わずか1年後にはカンプノウで1部デビューする。その記念すべき対戦相手は Zaragoza だった。1994年8月30日、スペインスーパーカップの試合。3−4で負けるもののアウェーの試合で0−2と勝っていたため、優勝カップを手にする。だが94ー95シーズンはこれが唯一のカップとなるほど、みじめなシーズンとなる。

このシーズンに入るあたりから、Cruyff とバルサ会長との醜い争いが表面化し、ソシオの間でも Cruyff 派と会長派とに二分されるような状況を迎えていた。そんな時のデビューである。不運というしかないであろう。
Van Gaal 政権時には、ひどい試合内容の時には盛んに白いハンカチが振られたものだが、さすがに Cruyff の時代にはない。だがブーイングによるファンからの批判はよくみられるようになっていた。その「ターゲット」になったのが Jordi だった。Cruyff 派、反 Cruyff 派、両派にとって息子の Jordi は格好の「餌」だった。自分の意志とは何の関わりもなく状況を受け入れなければならなかった「Cruyff の息子」は、次のように語る。
「バルサという難しいクラブで成功するには、強靱な精神力が必要だということを教わったような気がする。それは例えていえば、Koeman みたいなね」
Jordi はこのシーズン28試合プレーし、その内21試合はスタメンをかざる。そして、9ゴールを獲得し Koeman, Stoichkov と共に最高得点者となる。だが翌年、何回かの負傷欠場ということもあり、ほとんど試合に出ないまま Cruyff 政権の終了と共に、8年間のバルサ生活にさよならを告げることになる。

一方、Sergi は相変わらずひたすら走りまくっている。止まるところを知らない。だが一つ変化が起きたことと言えば、ボールにさわれるようになってきたことだった。もう LA MASIA に入って、5年もたっていたが地味な存在であることには変わりはなかった。「誰も自分に注目していない」というのが彼の印象だった。
だがこの年、1993年11月23日に人生最大の転機がやってくる。コーチングスタッフは彼の成長ぶりを見逃してはいなかった。トルコの Galatasaray 戦でのいきなりのデビューである。それも Copa de Europa 戦でのスタメンデビューであった。
「今までカンプノウの観客席からだとか、テレビ画面をとおして見ていたスター選手と一緒にプレーできるなんて、夢のようだった。何たって、一回も彼らと一緒に練習したことなんかなかったんだもんね」
確かに彼は1部のプレステージにも呼ばれたことは一度だってなかったし、一緒に練習したこともなかったのである。まさに衝撃のデビューであった。そして衝撃的なことはまだ続く。4日後におこなわれたカンプノウでのリーグ戦にも再びスタメンとしてデビューを果たす。
「LA MASIA、 隠れていた最後の宝石」という見出しで、翌日のあるスポーツ紙の一面を飾る。
Sergi はもう止まるところを知らない。「誰も自分に注目してない」無名の選手がいきなりデビューを飾ってから3か月後、スペインナショナルチームの監督 Clemente からおよびがかかった。なんとデビュー3か月後にして、スペイン代表という、あの Raul でさえ成し遂げなかった偉業である。

Sergi は走り続ける。Van Gaal はちょっと苦手な相手だったが、それでも誰が監督であろうとひたすら走り続ける。彼はキャラクター的にPep のようにカタルーニャのシンボルにはなれないことを知っていたが、そんなことは彼にはどうでも良かった。とにかく走れればいいんだ。

 

ここでは登場しなかった Celades をはじめ、何人かふれたい選手がいたのですが、それはまたの機会にして、一応 LA MASIA 編は終わりです。
いつの日か、Xavi、Pujol、Gabri、Reinaなどの、新しくバルサの歴史を作ってくれるであろうカンテラの人々の、続編ができればいいと思います。

[ 参考資料 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)
       Historia del F.C.Barcelona 1974/1993 (Jaume Sobreques i Callico)
       Del Genio al Malgenio (Ramon Besa)
[ 写真転載 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)