LA MASIA -ガブリ編-(2003/10/27)

ガブリは父の面影を“実像”としてではなく、父の残していった写真や母の話から作り上げた“偶像”とでしか持っていない。当時、悪条件の中での労働を強いられた鉱山労働者だった父は、職業病とも言える肺ガンで若くして亡くなっていた。ガブリ少年、まだ6歳の時だ。父の死が当然ながらガブリ家のその後に大きく影響することになる。ほとんど支払われていない家のローンの返済、そしてまだ小さい二人の子供を養っていかなければならない母。ガブリ家の将来は母の稼ぎ一つにかかってしまうことになる。彼女の名前はカルメン、繊維工場に勤めながら子供たちには辛い思いをさせないように必死になって働き続ける肝っ玉母さんへと変身していく。

ガブリエル・ガルシア・デ・ラ・トーレ、通称ガブリと呼ばれるこの少年は1979年2月10日にサレンというカタルーニャ州にある小さな村で生まれている。この少年の楽しみは家の前にある村のフットボール場で遊ぶことだった。知らない間にボール転がしのグループができあがる。そして10歳となった彼に目をつけたスカウトが現れた。バルセロナ郊外の街であるサバデルというクラブのスカウトだった。かつて一部リーグにも名を連ねたことがあるサバデル、そのクラブがカンテラ組織のメンバーとしてガブリを選んだ。もちろんノーとは言わない。

母のカルメンもノーとは言わなかった。だが彼女にとって、仕事や子供の養育以外にも“しなければならない”一つの用事ができたことになる。大事な息子をサバデルまで車で送り迎えしなければならないからだ。そして車を動かすには、ガソリンという決して安くない燃料が必要となる。彼女はギリギリの生活のなかから今また余計な出費を捻出しなければならない。ガソリン代、経済的にギリギリのところでやってきたガブリ家にとって、それは決してばかにならない出費の一つだった。夏休みの家族旅行や、服や靴などの買い物も控えることになるカルメン。ガブリ少年はこの母の努力の一部始終を見逃してはいなかった。だから、例えば、練習が終わった時や週末の試合が終わったときに時たまおこなわれる仲間同士の食事会があっても、彼は一度も参加したことがなかった。母にそんなお金を催促することができなかったからだ。

それだからこそ13歳になったときにバルサのスカウトから声がかかったとき、これで母は少し楽ができるのではないか、ガブリ少年はそう思ったという。なぜならバルサにはマシアというカンテラ専用の寮があり、母がいちいち車で送り迎えする必要がなくなるからだ。家族の食事代も養育費も浮くことになる。ガブリ少年、生まれて初めての親孝行ができたと思った。

「あれは、そう、ちょうど13歳になったときのこと。ある日、夜の11時に電話がかかってきたんだ。名前は忘れたけれど、レアル・マドリのスカウトと名乗る人だった。マドリのカンテラ組織のメンバーになる気はあるか、そういう内容の電話だった。突然だったし即答はできなかったから、母に相談して連絡するという返事をしたと思う。」
事実は小説より奇なり、なり、なりかな。この日の翌日いつものように学校に行っていたガブリに電話がかかってくる。今度は前日の夜に電話をしてきた人物とは違っていた。

「10時に電話がかかってきたのを覚えている。授業中に電話を受けたのなんか初めてだったからね。電話の相手はバルサのスカウトマンと名乗る人だった。この電話には躊躇しなかった。憧れのバルサからの誘いの電話。しかもマシア寮に入れることになる誘いの電話。今度ばかりは母に相談するなんて言わないで即答で、はいっ!、そう答えてしまった。もうそのあとの授業は上の空だった。」
週末に細かいことを話し合うことになっていたガブリを待っていたのはオリオル・トルト氏だった。今では伝説の人物となったあのオリオル・トルト、彼がガブリと直に話をしたがっていた。なぜなら彼はもう2年前からガブリを追いかけていたのだから。

「一人の人間の将来を決めることだから反対したかどうかわからないけれど、もしバルサから連絡がなかったらあの子はどうなっていたんだろうかね。レアル・マドリの誘いを私たちは受けていただろうか、いまでもそう思うことがあるんですよ。でも正直言って、もしあの子が行きたいといっても私は許さなかっただろうとも思いますね。なぜなら彼の父は猛烈なバルサファンでしたから。私もあの世に行くことになってお父さんと再会することになったとしたら、たぶんあの人は私を許してくれないんじゃないかと思って。」
ガブリには当然ながら記憶ないこと、それは母がガブリをこの世に誕生させた病院を退院する日、父はガブリ赤ちゃんにバルサのユニフォームを着せていた。そう、彼の父は熱狂的なバルセロニスタだった。

13歳でバルサのカンテラ選手となったガブリは、ほぼすべてのカテゴリーでナショナルチームに招集されている。だがそのことが彼にとって、マシアに住む子供たちのなかに完全に溶け込むことを遅らせる結果となった。ただでさえ家族や友達と離れて田舎からでてきた子供たちが孤独に陥ることになる寮での生活。ガブリは普段での練習や代表での合宿でよく負傷する選手だったため、マシア寮に住む他の子供たちとの接触が誰よりも少ない選手となってしまう。母への親孝行でもあるマシアへの入寮ではあったが、それほど開かれた性格でもない彼にとってひたすら孤独がやってきた最初の何年間だ。ガブリにとってもっとも辛い時期だった。

だが、人生の中で起こり得る多くの問題がそうであるように、時間の経過が、ひたすら時間の経過という妙薬が、ガブリの“問題”を解決してくれることとなる。学校の勉強は苦手だったが、マシア寮の規約にあるように落第して寮を追い出されることもなくそれなりにやってこれた。マシア寮内でも気がついてみれば多くの友人ができていた。入寮して数年もたてばガブリにとって人生の学校ともなっていたマシアだった。

そして今、ガブリは振り返る。
「今の自分があるのはすべてマシアのおかげだと思っている。同じ目的を持った、ほぼ同年代の少年たちが共同生活を送り、皆それぞれ同じような悩みを持っていた。ある同僚は寮を離れることを義務づけられたり、そしてある同僚は他の先輩を追い抜いてカテゴリーを駆け上がっていく。それでも、例えば、マシアを出てフットボールの世界から離れていった友人や、あるいは他のクラブで活躍する幸運に恵まれた友人も同じ経験と生活をしてきた大切な友人として今でもつき合っている。彼らは自分の財産の一つなんだ。」

だがガブリにとって感謝してもしきれない一人の人物、それは母カルメンだ。彼女が愛した父の人生の一部分となっていたバルサというクラブの一員になれたこと、そしてプロ選手となったことで母に生活の心配をさせる必要がなくなったこと、それでもなお自分にしてくれたことには遠く及ばないと考えるガブリ。そのガブリにとって、これからおこなえる最高の親孝行はバルサで成功すること、そう信じる彼にとって何をしているときでもバルサのことしか頭にない。父と同じように子供の頃から憧れていたバルサ。
「今でも、そう、今でも、グランドに出ていってイムノが流れると鳥肌が立つんだ。信じられないだろうけれど、本当にそうなんだ。そしてどんな相手であれ負けたときは本当に悲しくなる。とてつもなく悲しくなる。ここ何年かいいことがないけれど、そのうち必ずタイトルをとって空から見守っている父にカップを捧げたいと思う。」

バルサイムノを聞くときは今でも鳥肌が立つというガブリは、2003年10月26日におこなわれたマジョルカ戦に出場し、リーグ戦100試合出場を果たすことになる。