15 クバーラの登場 

1944−45のシーズン、FCバルセロナはリーグ2度目の優勝を飾っている。一度目はリーグが正式にスタートした1928−29のシーズンであった。その後、1947−48、1948−49と2シーズン連続リーグ優勝を勝ち取っている。特に48−49シーズンにおいては、リーグ優勝の他にコパ・ラティナ(イタリア、ポルトガル、フランス、そしてスペインの前年度優勝クラブ同士で争われるチャンピオンズシップ。現在のチャンピンズリーグ)、コパ・エバ・ドゥアルテ(現在のスーパーカップ。リーグ優勝クラブとカップ優勝クラブによって争われるタイトル)も獲得している。

1949−50のシーズン、FCバルセロナはクラブ創設50周年という記念すべきものであったにも関わらず、すべてのタイトルを逃し一つのサイクルの終わりを迎えていた。だが翌シーズン、クラブには超大物選手が入ってくる。この時代から50年たった今でさえ、クラブ史上3人の代表的な選手を選べと言われれば、サミティエールとヨハン・クライフ、そしてもう一人はこの人、クバーラであろう。

ところで1940年代といえば、世の中は第二次世界大戦中である。スペインは参戦していない。ヒットラーの再三にわたる参戦要請にフランコは独自のバランス感覚で、それをのらりくらりと拒否し続けた。事実スペインは内戦が終了したばかりであり、世界大戦に参加できるほどの余裕がなかった。そして世界大戦が終了し、フランコ独裁政権の同盟国であった日・独・伊のファシスト国家はすべて崩壊する。1945年8月、ボツダム会談により米・英・ソによる「反スペイン宣言」がだされ、スペインは世界から孤立してしまうのである。

だがフランコ・スペインに幸運が訪れる。それは1946年以降表面化してきたアメリカとソ連の対立、言い換えればアメリカを盟主とする西側陣営とソ連を盟主する東側陣営の「冷戦」であった。この「冷戦」はそれまで国際非難を浴びてきたスペインに、新しい国際政治上の意味を与えた。それはイベリア半島がヨーロッパとアフリカの中間に位置し、大西洋と地中海に囲まれている軍事的重要性にアメリカが目をつけたからである。

1950年、アメリカはスペインに経済援助を始める。と同時に国際連盟総会でも、スペイン排斥決議が解除された。それは、フランコ独裁政権にとっても、新たな政治を展開していかなければならない宿命が訪れたことを意味していた。

世界大戦終了後、東側はスターリニズムの嵐が吹いていた。クバーラはこのような政治状況の中、国外脱出を試みる。すでに将来性を期待される選手として知られていたクバーラを、FCバルセロナのサミティエールが目をつける。当時サミティエールは、クラブでスポーツ・ディレクター兼スカウト業をしていた。そしてサミティエールと友人関係にあったフランコも、政治的道具の一つとして利用するためスペインへの亡命を助けるのである。反ロシア政策としてのプロパガンダの一つであった。

ラディスラオ・クバーラ、1927年6月10日ブダペスト生まれる。貧しい家庭に育ったスロバキア系のハンガリー人。多くの有名選手が幼少の頃そうであったように、彼もまた「街角の通り」でフットボールを学んでいった。11歳の時、ハンガリーリーグ3部のクラブであるガンスに入団。そして6年後、彼が17歳の時フェレンバーロス・ブダペストに移籍する。それは夢のような出来事だった。なぜなら彼の父がかつて所属していたクラブでもあったからだ。このクラブに1年間だけ在籍した後、彼の父の故郷であるチェコスロバキアのブラティスラバというクラブに移籍している。ここでチームの監督をしていたフェルナンド・ダウシックに出会う。ダウシックは数年後、FCバルセロナの監督になる人物であった。

東ヨーロッパは激動の時代を迎えていた。モスクワの政治的介入による自由への抑圧に嫌気がさしていたクバーラは、西側への危険な逃亡を試みる。無事にウイーンに入った後、偽パスポートを手に入れイタリアに向かう。

イタリアには彼を迎え入れようとするクラブがいくつかあった。その中でもインテルとトリノが非常に興味を示していた。だが契約までにはたどり着かない。なぜなら常にハンガリーフットボール協会のOKがでなかったからだ。

ダウシックとの奇妙な再会が、クバーラの運命を変える。ダウシックもまた西側に逃げてきていた。そして多くの東側選手がクラブとの契約ができず生活にも困っているのを見たとき、彼の頭に一つのアイデアが浮かぶ。それは「第七旅団チーム(実際はハンガリーチームと呼ばれていた)」の結成だった。

東側諸国から亡命してきた選手を集めた「第七旅団チーム」は、ロシア人、ブルガリア人、ユーゴスラビア人、ルーマニア人、チェコ人、スロバキア人、そしてハンガリー人で構成された。そして試合が可能なヨーロッパの国々への遠征をしていく。スペインもそのような国の一つであった。

「第七旅団チーム」は、スペイン各地をまわって試合をおこなっていた。マドリの本拠地、チャマルティンでの試合にはサミティエルも観戦に来ていた。この試合でのクバーラのプレーは、サミティエールが震えるほどの興奮を覚えるものであったらしい。ボールテクニックの素晴らしさ、チームを率いていくリーダーシップ、何をとっても一流中の一流であった。「この選手はすごい」クバーラはバルサに絶対必要な選手だと思った。

だが、クバーラのプレーに圧倒され、是が非でも彼を獲得しなければならないと思った人物がもう一人いた。それはここのところ何年も低迷を続けているレアル・マドリの会長、サンティアゴ・ベルナベウであった。