16 伝説の人物、クバーラ 

レアル・マドリ会長のベルナベウの行動は素速かった。誰よりも早くクバーラと接触したのはベルナベウであった。クバーラの条件は単純なものであった。それは彼とは切っても切れない縁の、ダウシックの監督としての招へいも同時にして欲しいということだった。少し遅れてやってきたサミティエールにも同じ条件を突きつけていた。

レアル・マドリは不振のシーズンが続いていたこともあり、クラブ首脳陣間のゴタゴタもあいついでいた。この首脳陣間の不協和音が、結局クバーラを逃す原因となる。ベルナベウの動きは早かったにも関わらず、クラブとしての最終的結論をだすのに時間がかかった。一方、FCバルセロナは出遅れをとったものの、結論をだすのは早かった。サミティエールはクバーラの条件を呑む。

バルセロナにあるサリアグランドでのエスパニョールとの試合が、クバーラの「第七旅団チーム」の最後の試合となる。この試合後、FCバルセロナはクバーラとの契約に成功するからである。1950年6月15日のことだった。

「クバーラ、FCバルセロナと契約」の知らせは、マドリッドに大きな反響を生んだ。その中でもマルカは次のような記事を掲載している。
「レアル・マドリ首脳陣の落胆は理解できるものの、冷静に考えてみればクバーラがスペインリーグでプレーできる可能性はほとんどないと言っていいだろう。なぜならハンガリーフットボール協会が、彼に対してプレー許可をだすはずがないからである」

マルカの話しがでてきたので、少し触れておこう。最初は週刊誌として出発したマルカは1938年に誕生している。フランコを支持するファシストによって企画されたこのメディアの目的は、スポーツ全般、特にフットボール関係のニュースのオフィシャル的な要素をもったもの、つまり第二次世界大戦中の日本で言えば「大本営発表ニュース」的なものを目指したものであったという。それはひとえに、民衆のスポーツへの関心を深めさせることにより、政治への(もちろん左翼への)興味をそらせることにあったらしい。

ところで、クバーラが正式にクラブの選手となるためには、事実もう少し待たなければならなかった。FIFAに持ち込まれたクバーラの契約書は、ハンガリーフットボール協会の反対にあって、受けつけられなかったからだ。

クバーラに残された唯一の解決方法は、スペイン国籍の取得であった。そして度重なる手続きを経て、翌年の春にようやくスペイン国籍を取得するのである。これでFCバルセロナとクバーラの間に交わされた契約書を、FIFAが拒否する理由は何もなくなった。こうして、クバーラが加わった新星バルサがついにスタートする。それは1951−52のシーズンであった。クバーラは、24歳になろうとしていた。

このシーズンに関しては次回で触れようと思う。ここではクバーラのその後について迫ってみる。

クバーラは11年間、バルサに在籍する。その間、4回のリーグ優勝、5回のヘネラリシモカップ(現国王杯)、2回のフェリアカップ(現UEFAカップ)、1回のコパ・ラティナ(現チャンピオンズカップ)と輝かしいタイトルの数々を獲得することになる。しかも349試合に出場し、272ゴールを決めている。

クバーラの引退試合は1961年8月30日、超満員となったカンプノウでおこなわれた。この試合、バルサは特別補強選手としてディ・ステファノとプスカスを加えてチーム構成している。こうしてクバーラのバルサ選手としての歴史は幕を閉じる。

クバーラはその後、FCバルセロナの少年部のコーチを経て、2年弱の間1部の監督を務めたが、突如エスパニョールに移籍し、選手兼監督として1年半過ごしている。そしてエルチェ、ムルシア、コルドバ、マラガなどの監督経験を経て、スイスやカナダ、アラビア・サウジなどでの監督も経験している。また、1969年から11年にもわたりスペインナショナルチームの監督を務め、FCバルセロナの新会長にホセ・ルイス・ヌニェスが選ばれた時、再びクラブの監督になった。

実はクバーラには今後、誰にも破れないであろう記録を持っている。それは3カ国のナショナルチーム代表になっていることだ。生まれた国であるハンガリーにいたとき、父の国であるスロバキアにいたとき、そしてスペイン国籍をとってからのスペイン代表選手。彼はスペイン代表選手として19試合に出場している。

クバーラは現在「元バルサ選手団体」の会長を務めている。それはクラブ歴史上の「伝説の人物」としての、シンボル的な職でもある。