41 ヌニェスとマラドーナ

カンプノウはバルセロナの街の北に位置するが、さらにもう少し北に行ったところにペドラルベスと呼ばれる地区がある。昔のブルジョア階級の人たちが住みついていた街で、今でも相変わらず裕福な家庭の人々が住んでいる。マラドーナもこの地区にある大マンションをクラブに借りてもらっていた。高台に位置するこのマンションのプールからは、バルセロナの街が一望された。そして、ここで毎日のようにパーティーがおこなわれる。

「マラドーナ一族」と呼ばれる人々がいる。マラドーナを中心に生活するその「マラドーナ一族」も当然この大マンションに住んでいた。個人トレーナー、専属ドクター、そして多くの「友人」たちと共に彼の幼なじみであり代理人でもあるホルヘ・システルピレール。この一族がこのマンションにいないときは、ほぼ間違いなく市内のナイトクラブやディスコに集まっていた。マラドーナをはじめとするこの一族は、夜の生活が大好きな人々だった。そのマラドーナの夜の生活がメディアはもちろん、バルセロニスタに知られることになるにはそれほど時間は必要としなかった。

最初のシーズンにマラドーナが肝炎で倒れたとき、すでにバルセロニスタはその原因が彼のだらしない生活から来ていることを知っていた。連日続くパーティー、女、アルコール。だがコカインにまで手をつけていることまでは気がつかなかった。

「1982年にバルセロナで初めてコカインを試した。あれは22歳の時だね。なんか刺激が欲しかったんだ。それだけの理由さ。だがね、フットボールの世界にはドラッグはいつも存在していたんだ。別に俺が最初というわけではないさ。ことわっておくけどね、あの時も俺だけじゃないんだよ、ドラッグを使用していたのは」
バルセロナを離れ、彼のコカイン常習問題が世の中に知れわたった後の、彼のコメントだ。ファンが気がついていなくとも、バルサ首脳陣は何らかの情報を持っていたフシがある。少なくとも、まともな生活をしていないことはわかっていたようだ。副会長の1人であるニコラス・カサウスは同じアルゼンチン生まれということもあり、クラブ内ではマラドーナに最も近い人間であった。その彼が語る。
「彼がバルセロナに着いた時、すべてをフットボールとバルサに捧げるつもりでやって来たと言っていた。私はもちろん信じたよ彼の言葉を。だがね、時間が経つに連れて気がついたことがある。それはマラドーナは自分の人生を自分でコントロールできなくなってるということだった。システルピレール、つまり彼の代理人が彼の人生をコントロールし始めてしまったんだ。ある日彼のマンションを訪ねたことがある。マラドーナは8人や9人の仲間というのかボディーガードというのか、とにかくそういう怪しげな人物に囲まれていた。それはまるで人間の壁のようで他人の入る隙間もない感じだった。」

だがグランドに姿を現すマラドーナは本物のプロ選手だった。彼は大スターという自分に自惚れるでもなく、あくまでもチーム内の一選手として振る舞う。だが自分の大スターとしての「特権」が、同僚選手の役立ちそうなときはクラブ理事会と対決したとしても後にひかないマラドーナだった。バルサとパリス・サンジェルマンとの親善試合の時だった。彼はこの試合前に他の選手の一試合でもらえる「報奨金」が自分より低いことを知る。彼はクラブ理事会に連絡をとり、もし自分と同じ額の報奨金にしないのならこの試合には出ないと忠告する。クラブ理事会はさんざんもめたあげく、結局マラドーナの意見を受け容れる。4−1で勝利したバルサは、試合後、その勝利を祝うというよりは「報奨金」の値上げを祝ってパリの夜の街にくり出したという。マラドーナはグランド内はもとより、外においても選手たちのリーダーとなりつつあった。

個人生活では自分の周りに「マラドーナ一族」を形成し、クラブ内においては一つの「権力」を形成したと、マラドーナを判断するヌニェス会長。もともとこの会長とマラドーナはうまくいく要素に欠けていた。会長になって数年たったにも関わらず、いまだにリーグ優勝が果たせないバルサだ。会長からすれば、選手のクラブに対する献身がまだまだ足らないと写っていた。選手は生活のすべてをクラブの栄光に向けて捧げるべきだと、この会長は思う。だがマラドーナが来てから、そしてさらにメノッティが加わってから、バルサの選手に対する不満が蓄積していくヌニェスである。

メノッティはこれまでの歴代の監督がおこなってきた一つの慣習を壊した。彼は練習開始時間を午後の3時にしたのだ。これまではどのような監督が就任しようが練習は午前中であった。ミケルスやウド・ラテックのような厳しい監督だと午前と午後の2回も練習をおこなってきた。だがメノッティは、選手の体のリズムに良いという理由で午後の3時を練習時間にあて、1時間ちょっとの練習というのが毎日の習慣となっていた。そしてメノッティも夜のバルセロナの街が大好きな監督であった。

ヌニェスは何もかも気に入らない。

ヌニェスはクラブの経済的観点から見れば、ずば抜けた才能を持った会長であった。就任5年にして、長年にわたって赤字経営だったクラブを黒字にもっていっている。ソシオ数もうなぎ登りで上昇していた。だが残念なことに、大スターを特別な存在として扱う才能にもアイデアにも欠けていた。すべての選手に同じように「規律」を要求する。それは普通の選手でも大スター選手でも区別はなかった。その上、クラブ内に一つの「権力」を構成したマラドーナは、彼から見ると問題児であった。それも非常にやっかいな問題児であった。