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マラドーナ2年目となる83−84のシーズンは、1983年9月24日第4節を迎えていた。前シーズンのチャンピオンであるビルバオを迎えてのカンプノウでの試合。ビルバオの監督はハビエル・クラメンテだ。 対照的な2人の監督である。選手個人の才能と創造性を大切にし、各選手の自由な発想のもとにチーム総体としてのブロック作りが理想的とするメノッティ。対して、選手1人1人が相手の創造性を破壊する駒であり、非常に肉体的な激しいフットボールを信条とするクレメンテ。メノッティからビルバオを見れば「恐ろしくも暴力的」なフットボールであり、クレメンテからバルサを眺めると「お嬢さん」フットボールであった。したがって試合がおこなわれるまでの1週間、それぞれの監督による壮絶な舌戦が繰り広げられたのも不思議なことではない。 試合開始と共にバルサは圧倒的なボール支配を見せ、ペリーコ・アロンソとフーリオ・アルベルトの得点により前半を楽に終了した。誰の目から見てもバルサ圧勝という雰囲気を感じさせる試合展開の前半だった。だが後半12分、シュステルに昨シーズン大けがをさせたゴイコエチェア(2001−02シーズン開始当初のラージョの監督)が、再びその暴力性をむき出しにしたプレーをする。今度の犠牲者はマラドーナだった。ボールを持ったマラドーナに対し、後ろからのゴイコエチェアの「恐ろしくとも暴力的な」タックルが決まる。その後、スペインフットボール史において「最も暴力的なタックル」と呼ばれることになるファールであった。また、イギリスのメディア向けにスペインでフリーランサーとして働くエドワード・オーエンが、このゴイコエチェアのプレーを見て「ビルバオの屠殺人」というあだ名をつけて有名になったプレーでもある。 最低でも4か月とみられる重傷であった。試合後の記者会見でメノッティは、苦々しい顔で次のように語っている。 また翌日のカタルーニャの一般紙エル・ペリオディコは次のように紙面を埋めている。 ゴイコエチェアに対し、フットボール競技委員会は18試合の出場停止処分を科した。 一時は再起不能説まで流れたマラドーナだが、奇跡的にも回復は早かった。翌年の1月1日の練習に合流できるまでになっていた。大惨事からわずか2か月しかたっていない。 1984年1月8日、カンプノウでのセビージャ戦が復帰第1戦となる。この試合マラドーナはまるで故障期間などなかったかのようにプレーし続け、2点をあげバルサを勝利に導いている。そして3週間後、サンマメスでの因縁のビルバオ戦。両チーム合わせて50以上のファールがあった異常な試合にも関わらず、マラドーナはやはり2点を獲得し1−2でバルサが勝利した。 普通のクラブであれば、マラドーナは英雄であっただろう。再起不能かも知れないといわれた大怪我から戻って来てのいきなりの活躍だ。だがバルサは、良い意味でも悪い意味でも「普通のクラブ」ではなくバルサだった。チーム成績の不振に対するファンの攻撃は、マラドーナでさえ逃れられなかった。 マラドーナの復帰に楽観主義が一時的にはびこったものの、リーグ戦でのバルサは相変わらずイレギュラーな成績を残すことになる。もう少しのところで首位に立てるというときに思わぬ敗北を喫するバルサだ。今年こそはという期待を膨らませていたバルセロニスタの思いは、再び裏切られることになる。リーガのタイトルは再びビルバオが持って行くことになる。そしてファンの怒りはタイトルが遠のいていくほど強烈なクラブ批判、選手批判となる。 マンチェスター相手のレコパの試合がカンプノウでおこなわれた。マラドーナはあの事件以来、現役を引退するまで抱えなければいけない持病を抱え込んでいた。腰痛、それが彼が常に抱えるやっかいな持病だった。この試合も痛み止めを打って、メノッティの反対を押して出場している。オールド・トラッフォードで3−0で敗北したバルサには厳しい試合だった。だからどうしてもマラドーナは出場を主張した。だが満足のいくプレーのできないまま前半終了間際に交代させられた。しかも観衆からは彼に対し、ブーイングさえおこっていた。 「こんな仕打ちにあってまで、負傷を押して出場する価値があるのか!」 |
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