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ヌニェス会長は、以前からボビー・ロブソンの監督就任を画策していた。事実、これまで何回かロブソンに接触を試みてはいた。だがいつもタイミングが悪かった。
メノッティが抜けた穴を埋めるために、今回もロブソンと接触を図るヌニェスだ。正確に言えば接触を図るのは彼ではなく、英語が堪能なガスパー副会長の役目となる。これまで何回かのロブソンとの接触も彼がすべてやってきた。したがって今では懇意の仲と言っても良いほどの関係となっていた。ロブソンがイギリス代表の監督になっていることをガスパーはもちろん知っている。そしてロブソンが、一度サインした契約は必ず最後まで守り通す男だということも知っていた。今回もバルサ要請のタイミングが悪かったことも、もちろんわかっているガスパーだ。 「ガスパーには代表監督としての契約がまだ残っていることを理由に、丁重にお断りした。私一人で決められるものであったら、間違いなくあの時点でバルサの監督就任を引き受けていただろうと思う。私はバルサの要請には応えられなかったけれども、その代わりと言っては何だが一人の優秀な監督を紹介した。テリー・ベナブレス、若い監督で経験不足ではあるが将来を有望できる人物だ。モダンな発想にあふれ、インテリジェンスを持ち、将来を約束された監督だった。ガスパーは真剣な表情で聞き入っていたが、ベナブレスのことは知らなかったみたいだ。最後にベナブレスという名前のスペルを教えてくれと聞いたぐらいだからね」 そう、ガスパーはベナブレスを知らなかった。だがベナブレスを知らなかったのはガスパーだけではなかった。ヌニェスも知らなかったし、多くのバルセロニスタにしても聞いたことのない名前だった。 41歳になるベナブレスは、選手(チェルシー、トッテンハム)としても監督(クリスタル・パレス、クイーンズ・パークレンジャース)としても派手な成績を残したわけではなかった。もちろんアレックス・ファーガソンやジョージ・グラハム、ハワード・ケンダルなどとは比べられる監督ではなかった。だがバルサの信頼するロブソンが言うことだ、ヌニェスにとってはそれでじゅうぶんだった。 「私は単なるレンジャースの監督にすぎなかった。だからバルサみたいなビッグクラブからのオファーがあった時には、なぜ私が選ばれたのか良く理解できなかったんだ。だがそれがロブソンの推薦ということと、バルサがどうしてもイギリス人の監督を欲しがっているということを聞いて納得した。これまでのバルサにはしっかりとした規律が欠けているという。イギリス人監督というのは、そういう意味では非常に厳しいという評判があるからね。」 マラドーナが抜けた穴を埋めるのは誰か。それは誰もが考えることだった。もちろんバルサ首脳陣としても一応の候補選手を用意していた。それはAt.マドリのデランテーロ、メキシコ人のウゴ・サンチェス。テクニックとパワーにあふれたバルセロニスタ好みのこの選手がバルサ首脳陣が狙う標的だった。 マラドーナ獲得の一翼を担い、一躍その名をあげたFIFAエージェントのホセ・マリア・ミンゲージャがウゴ・サンチェスの獲得に走る。いつものことながら、スペインリーグ内の他のクラブで活躍するクラック選手を獲得するのは難しい交渉となる。だがミンゲージャは、At.マドリの会長ビセンテ・カルデロンとどうにか移籍の合意をみることができた。だがベナブレスが考えていた選手はウゴ・サンチェスではなく、他の選手だった。 その名をスティーブ・アーチバルという、スコットランドの選手だった。ベナブレスと同じく、バルセロニスタには初めて聞く名の選手。 すべての選手の犠牲的精神が必要とされるプレッシングフットボール。これがベナブレスが考える理想的なフットボールであった。ベナブレスはもちろんウゴ・サンチェスの事を知っていた。だが彼のフットボールにはラテン系スタイルの彼のプレーより、アングロサクソン系のストレートなプレースタイルを得意とするアーチバルの方が適していた。スティーブ・アーチバル、ベナブレスバルサの目玉選手としてバルサに移籍することになる。 バルサで指揮をとることが決まったベナブレスは、イギリスのジャーナリストのインタビューで次のように語っている。 ベナブレスは最初の瞬間からこの「挑戦」がいかに難しいものであるかということがわかっていた。それはこれまでのヌニェス会長がやってきたことを見るだけで理解できることだった。ヌニェスが会長に就任してから6年目であるにも関わらず、その間に監督を務めた人物は7人にものぼっている。彼は8人目の監督であった。「結果がすべての世界」に足を踏み入れたことをじゅうぶん認識していたベナブレスであった。 |
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