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1992年8月8日、夏の強烈な日射しがカンプノウを包んでいる。観客席は9万6千人の人々によって埋め尽くされていた。だがバルサの試合を見るためではない。バルセロナオリンピックのフットボールの決勝戦がおこなわれるのだ。スペイン代表対ポーランド代表によって争われる金メダルをかけた試合だった。
アルベルト・フェレール、バルセロナ生まれでバルセロナ育ち、つまり生粋のバルセロナっ子だ。カタルーニャの子供たちの多くがそうであるように、彼もまた子供の頃からバルセロニスタであり将来の夢はバルサでプレーすることだった。そして10代のはじめの頃からバルサの少年部に所属する幸運をつかんでいた。奇しくもクライフがバルサに監督として来た1988年にフェレールはバルサBチームに上がることになる。 1990年1月、フェレールの成長ぶりに興味を持っていたアスカルゴルタが自ら監督を務めるテネリフェへのレンタル移籍をクライフに依頼する。アスカルゴルタとクライフは気が合う仲でもあった。クライフもフェレールを一部のチームで経験を積ましてから将来バルサに戻すことはいいことだと思ったため、話はすぐまとまった。結局、フェレールのテネリフェでのプレー期間は半年だけとなった。なぜなら翌シーズンの始まる前のプレステージでクライフに呼び戻されたからだ。1989−90シーズンの後半だけテネリフェでプレーしたフェレールは1990−91シーズンからバルサ一部の選手となる。そして、最初のシーズンからスタメン絶対選手として活躍するラッキーボーイとなる。デビューした年にいきなりリーグ優勝を達成するラッキーボーイでもあった。だがデビューしてから1年半たった時、選手生活最大の危機がやって来る。 1991年11月3日のログローニェス戦で右足十字靱帯を切断するという重大な負傷が彼を襲った。まだこの段階では翌年のウエンブリー決勝戦は誰の目からも見えていない。だがオリンピック出場はすでに決定事項だった。全治8か月と診断されたフェレールにとって、手術後の毎日の生活は1日でも早くグランドに戻るための必死の戦いとなる。 彼の手術を担当した医師の言葉が彼の脳裏から離れない。 さて、このオリンピック決勝戦から約2週間後、1992−93シーズンのバルサのプレゼンテーションがカンプノウでおこなわれている。このシーズンにはおもだった選手の移籍や放出がおこなわれていない。前シーズンでクラブ初のヨーロッパチャンピオンのタイトルを獲得したことや、2年連続リーグ戦タイトルを獲得したことにより、すでに在籍中のメンバー中心で再びタイトルを獲得していこうということだった。だがこのプレゼンテーションで一つだけ問題になったことがあった。それはこのシーズン用の新たなユニフォームのデザインだった。 カッパがこのシーズン用にデザインしたユニフォームには、これまでなかった白色のラインが入っていた。肩から腕にかけての白いライン、そしてパンツの両脇にデザインされた白の太いライン。これが問題だった。多くのバルセロニスタが不快感を表明するが、誰よりも早くこのユニフォームを批判したのはクライフだった。 9月からスタートしたこのシーズン、バルサはまるで前シーズン終了間際に見せたラストスパートのような勢いで再び始動する。その勢いはクリスマス休暇に入るまで続き、コルーニャでの試合に敗北しただけという素晴らしい結果を残している。だがコパ・デ・ヨーロッパの戦いはそうはいかなかった。コパ・デ・ヨーロッパ・リーグ戦に入る前のCSKAモスクワ相手の試合に敗れ、11月の段階で早くもヨーロッパ戦から姿を消していた。さらに12月に入って日本でおこなわれたコパ・コンチネンタル戦(トヨタカップ)にも南米のサンパウロに敗れている。 第14節から第24節までデポルティーボが首位を走っている。マドリやバルサが2、3ポイント差でデポールティーボを追うような形でリーグ戦は展開されていく。このシーズンの優勝候補は早くからこの3チームに絞られていた。そして第30節を過ぎていくあたりからデポルティーボが落ち始め、バルサとマドリによる首位争いが再び展開されていく。 前シーズンに続き、また最終戦まで優勝チームが決定しないシーズンとなった。しかも前シーズンと同じような条件が偶然ながら重なっている。マドリが1ポイント差でバルサをおさえているものの、得失点差ではバルサがマドリを上まわっていた。したがって最終戦の結果次第でもし同ポイントとなればバルサにタイトルがまわってくる。そしてさらに偶然の要素は続く。マドリは再びテネリフェへ行っての試合となっていた。バルサはカンプノウにレアル・ソシエダを迎えていた。 1993年6月20日、バルセロナとテネリフェという4千キロ離れたところで19時きっかりにリーグタイトルをかけた重要な試合が同時に開始されようとしていた。 |
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