66 クライフとクラック選手たち(92−93) 

ストイチコフがチームを奮い立たせていく荒れ狂う狼だとすれば、ラウドゥルップは正真正銘の貴公子であり、クーマンはチームの心臓を司る貴重な選手だった。バスク人の選手たち、つまりスビサレッタやバケーロ、チキなどと共に、クライフがイメージするバルサパズルを構成していく重要な選手たちであったのはもちろんのことだ。この1992−93シーズンが、最終戦で再びリーグ優勝を遂げることにより素晴らしいシーズンとして記録されることとなったものの、それまでの道のりは決して穏やかなものではなかった。クラブの内部的な問題、つまりクライフとクラック選手たちとの衝突、あるいはクライフとヌニェス会長との衝突、それらが徐々に表面化してきた時期でもある。

シーズンが開始されてから2試合目、バルサはテネリフェにわたってアウエーの試合を戦う。結果は1−1の引き分け。シーズンはまだ始まったばかりだというのに、クライフはこの試合におけるラウドゥルップとストイチコフのプレー態度が気にくわなかった。試合後にクライフはテレビやラジオ局のマイクを通して彼らを批判する。
「ラウドゥルップとストイチコフ、この二人のプレーにはがっかりしている。テネリフェは我々に十分な攻撃スペースを作ってくれたのに彼らはそれを活用しようともせず90分プレーしていた。特にテネリフェが10人となってから大きく開いたスペースを彼らは効果的に活用することもなかった。問題は彼らの周りの選手たちが一生懸命スペースを作りだしていたにも関わらず彼らに真剣なプレーが見られなかったことだ。まったくもって期待外れの試合と言っていいだろう。」

グランドの中でも外でも常にジェントルマンであるラウドゥルップ。彼はプロ選手として一度たりとも退場させられたことがないことからもわかるように、決して審判や相手選手と衝突することがない選手だった。彼の目的はたった一つ、それは楽しいフットボールをすること、それだけだ。だから守備的で魅力的でなくなった時期のデンマーク代表の召集を断ったりする選手でもある。だがそんな彼でさえ、メディアを通じて批判を聞くことは堪えられないことであった。テネリフェ戦後にクライフによって批判されたラウドゥルップは、翌日の練習後の記者会見で言葉少なく、だがバルサに入団してから初めての不満をもらすことになる。
「これまでもそうだったように、いつも批判は俺たちに来るんだ。昨日の試合のビデオを見ればわかることだろうが、ボールに触らない選手だっていたはずなのに常に批判されるのは俺やストイチコフだ。」

このテネリフェ戦がおこなわれたのが1992年9月12日。それから4日後にはコパ・デ・ヨーロッパでの最初の試合がおこなわれようとしていた。相手はノルウエーのバイキングというチームだ。クライフはこの試合前にも彼らに挑発をかける。
「もし再びテネリフェ戦のようなプレーをしたら彼らは次の試合からベンチ生活となるだろう。」
試合前の共同記者会見で語られたクライフの言葉だ。

まさに挑発行為と呼んで良いだろう。クライフから見るラウドゥルップという選手はまさしくフットボールのアーティストであった。そして多くのアーティストがそうであるように、彼もまた気が乗った時にしかすべての力を出し切れない精神構造をもった選手として理解していた。相手がユベントスやマドリであれば一切の挑発行為は必要ない。そんなものがなくても彼らはじゅうぶん燃え上がることができると知っていたからだ。だがテネリフェとか名の知れぬバイキングとかいうクラブと対戦するときにはモチベーション的にかなり低くなることを理解していた。クライフもかつてそういうクラック選手だったからだ。だから、そう、彼らをできる限り挑発するクライフ。だが同時にそれは危険な賭けであったことも確かである。

ラウドゥルップはストイチコフと違って批判を気にするタイプだ。テネリフェ戦では体調を崩し高熱がありながらプレーを続け、ハーフタイムには控え室で吐きながらも後半に入って試合を続行した。だがそんな彼を待っていたのは彼に対する納得できない批判だった。彼はこの日から2か月間にわたりクライフと目を合わせることも会話することも避けている。彼は怒りが爆発することなしに、内部にたまっていくタイプだった。

対照的なのはストイチコフだ。彼もことあるごとにクライフからの批判を受ける選手だった。批判に対しては臆すことなく批判を持って応えるストイチコフ。思ったままのことを発言し、それがまたクライフの批判を浴びることになる。そして彼の批判の対象は、時としてクラブ首脳陣にまで向かうことがあった。

クラック選手を多く抱えるビッグクラブにいつの時代でも尽きない問題、それは大事な選手が代表に召集されることによりクラブの試合に出場できなくなることだ。当時のバルサには多くの代表選手が在籍していた。クレメンテが指揮するスペイン代表にはスビサレッタ、バケーロ、グアルディオーラ、フェレール、ゴイコエチェア、チキ、サリーナス、アモール、そしてバルサBからもクリスティアンセン。多いときには9人もの選手がスペイン代表として召集された。クーマン、ラウドゥルップとストイチコフ、ビチケにしても同様だ。そしてクライフは代表選手に過酷な要求をする。代表を断ってチームに専念すべきだと。

ストイチコフはもちろん反発する。だがクライフに直接ではなくクラブ批判を通じて間接的な批判を繰り返す。
「俺は何回も個人的にブルガリア代表関係者と交渉してきた。代表に呼ばれるたびに召集日を遅くしてもらったり、拘束期間を短くするよう交渉してきた。だがクラブの責任者は俺に何をしてくれたというのだ。彼らがクラブ代表としてブルガリア関係者と交渉すべきだと俺は何回も言ってきたにも関わらず、彼らは何の動きもしてくれなかった。俺が代表の試合に出場することでバルサの試合に出られなくなったとしても俺のせいじゃない。クラブ関係者が悪いんだ。」

クライフと主にクラック選手との衝突問題は、この時期まだまだ少ない方だ。だがそれまでくすぶっていたものが徐々に表面化してきた時期ではある。それはクライフと会長のヌニェスの関係においても同じようなことが言える。

このシーズンに入る前にすでに2年連続リーグ優勝を果たし、クラブ念願のヨーロッパチャンピオンにも輝いたことはビジネス的に監督延長契約を結ぶ絶好のチャンスだとクライフは考えていた。このシーズンが始まる前のプレステージの段階で、もしクラブが“適切”な年俸を提示しないのなら、このシーズンをもって監督を辞任するともメディアに発表していたクライフである。もちろんこの見えすいたプレッシャーをヌニェスは気に入らない。延長契約はシーズンを通して何回もおこなわれている。その度に分裂を繰り返す交渉。だが最終的にこの強烈なキャラクターを持った二人の人物はお互いに歩み寄りを見せることになる。もちろん彼ら二人の間の問題が根本的に解決したわけではなかった。ある意味で言えば、これからシーズンごとに繰り返されることになる“衝突事件”のほんのスタートが切られただけだった。

ただでさえいろいろな問題を抱えてきているバルサに翌シーズン、爆弾選手が入団してくる。それはいろいろな意味で爆弾であった。クラック選手にも影響を与える爆弾。なぜならリーグの試合ではベンチには4人の外国人選手が入れるものの同時にプレーできるのは3人。しかもヨーロッパの試合では外国人選手は3人しか入れない決まりとなっていた。クーマン、ストイチコフ、ラウドゥルップという3人の超クラック外国人選手を抱えるバルサに新たな外国人選手、それも超クラック選手が入団にしてくるのだ。