67 ロマリオ・デ・ソウサ・ファリア(93−94)

「バルサが俺と契約したのは俺のゴールが必要だったからだ。そして俺は要求どおりにゴールを決めまくった。それだけの話しだ。そうだろ!」
素っ気なく語るロマリオ。確かに彼の言うことに間違いはない。彼のゴールがクライフバルサを4年連続リーグ優勝に導く一因となったのだから。この27歳のブラジル人選手はフットボール選手として最盛期をバルサで過ごすことになる。165cmという小柄な身体でありながら、重心を低くして展開される彼の特徴あるプレーはまさに芸術と言っていいだろう。

彼についてクライフは語る。
「ボールを持ったロマリオはまさにアーチストと言っていい。一人の選手が持つことのできる可能な限りの才能をそれぞれ持ち合わせている。一対一に強いし、彼から送られるセンターリングは第一級品。もちろん彼の持つゴールの嗅覚に関しては今さら語る必要もないだろう。」

そしてロマリオがバルサに来る前に在籍していたPSV 時代の監督であるロブソンは次のように語る。
「ロマリオはスーパークラスの選手であることは疑いがないところ。彼の持つ特有のゴールの嗅覚を越える選手は、ここ何十年探しても見つからないだろう。だが残念ながら神は完璧というものを人間に与えなかった。彼の大きな問題は子供のような無責任さにあるんだ。何日間かまったく連絡が途絶えたりしたかと思うと試合前に突然現れる。そして夜ともなるとディスコで朝まで踊っていたりするんだ。大事な試合を控えていようがいまいが彼の行動はいつも同じだった。」

ロマリオの問題は、そう、それが“問題”だとすればの話だが、彼のキャラクターは典型的なカリオカ出身の選手のそれだったということだろう。リオ・デ・ジャネイロ育ちの典型的な性格。それはロマリオがバルサ選手時代に常に口にしていた言葉を聞けば明らかだ。
「俺はリオ出身。サンバとカーニバルが生き甲斐で、いつもハッピーに生きたい。そしてもちろん青い海とさんさんと輝く太陽が大好き。カリオカ出身の人間はみんなそうさ。」

カリオカの人間が寒いオランダの気候の下でプレーしなければならなかった。PSVの選手としてデビューした試合、足には分厚いタイツを、両手には手袋というスタイルで出場したものの、グランドに立っていられるのは30分だけだった。経験したことのない強烈な寒さに身体が震えプレーどころではなかったロマリオ。そのような彼にとってバルサは天国だったはずだ。青い海と輝く太陽がある地中海の街バルセロナ。気候はもちろん温暖だし、彼が在籍することになるクラブは世界の中でも屈指のクラブだったのだから。だがロマリオにとってヨーロッパで生活するということは一時的なものに過ぎなかった。彼はヨーロッパの地に定着する気などさらさらなかった。彼にとってあらゆる意味で天国にみえたバルサであるにも関わらず、2年間という短い契約を彼は望んだ。

彼のバルセロナにおける“住居”はホテルだった。プリンセッサ・ソフィアホテル。17階にある二部屋続きとさらにスイートルームを“自宅”としていた。それはバルサに在籍した1年半という期間を通じて同じものだった。住居としてクラブが用意したいくつかのマンションはすべて断った。それがヨーロッパにおける彼の生き方だったから。

1994年のクリスマス近くのことだ。バルサはドイツでブラックバーン・ロバースとの親善試合を戦う。ロマリオがPSVから移籍したときの契約項目に入っている6試合の親善試合の一つだった。この試合の売り上げがPSVにわたされ移籍料の一部となる。クリスマス休暇ということもあり、クライフはこの試合が終了次第すべての選手に1週間の休暇を約束していた。

試合開始とともに出場したロマリオは、ハーフタイムでの交代をレシャックに申し出た。この日の試合ではクライフに代わってレシャックが指揮をとっていた。疲労が激しすぎて後半は動けない、それがロマリオの交代理由だった。レシャックによる許可を得たロマリオは、シャワーを浴び1秒もムダにできないと急いでグランドを後にした。ちょうど後半が始まり選手たちがグランドに出ていく頃だった。タクシーを拾ったロマリオは空港に向かう。そこには前もって150万ペセタを払って予約していたエアータクシーが彼の到着を待っていた。行き先はもちろんリオだった。

それでもPSV時代に比べれば、バルサに来てからなかなかリオに帰れないというロマリオだ。PSVでは彼のわがままが平然と通用したにも関わらず、クライフバルサではそれも難しいことだった。彼の入団した1993−94シーズンには約束どおりの30ゴールを決めながらも、シーズン後半にはそれまでのロマリオではなくなってきていた。不満に思っていたクライフはメディアと通じて何回となくロマリオを批判する。シーズン後半のロマリオの不振、それを不振と呼ぶか手抜きと呼ぶか、だがクライフにとっては明らかに手抜きだった。

リオへの望郷心もさることながら、ロマリオにとってはワールドカップアメリカ大会が重要な意味を持っていたことは想像できる。多くのブラジル人選手がそうであるように、彼にとっても自分の本来のクラブはセレソンだった。PSVでもバルサでもなくセレソンの選手だった。前回のイタリア大会では負傷していたロマリオにとって、今回のワールドカップは自己を賭けた最高のものとしなければならなかった。だから、そう、負傷することなんてまっぴらご免、出稼ぎに来ているクラブでの試合などで負傷する危険を犯すことなど彼にはできなかった。

だがワールドカップが終了してもロマリオはカリオカのロマリオだった。アメリカ大会で5ゴールを決めセレソンを優勝に導いた彼にとって、バルサとはいえヨーロッパのクラブでプレーすることのモチベーションは計り知れないほど少ないものとなっていた。2年の契約が切れるのを待てない彼は、ワールドカップ終了後に可能な限りのスポンサーを訪ねていた。バルサからブラジルのクラブへの移籍が可能となるための資金繰りを始めていたのだ。だが不況にあえぐブラジル企業にはその資金を提供することができなかった。ロマリオは1994−95シーズン開始に向けてのプレステージに23日間遅れてバルセロナに戻ってきた。

ロマリオがバルサの選手として最後にロマリオらしさを見せたのは1994年11月2日のマンチェスター戦だった。11万2千人がかけつけたカンプノウでのチャンピオンズリーグの試合だ。この試合バルサは4−0でマンチェスターを文字通り沈めた。スペクタクルな試合だった。特にロマリオが決めたゴール、それは30m離れたところからのストイチコフのパスを胸で受け止め、パリスターのマークをかわしてあげたゴール。8年間にわたりクラブの監督を務めてきたファーガソンが「マンチェスタークラブ史上に残る敗北」と名付けた試合だった。

1995年1月、ロマリオはフラメンゴへと移籍していく。彼はいつも同僚の選手とは簡単な挨拶しか交わさない。最後の日も同じだった。
「オラー、グラシアス、アディオス!」
これがロマリオのバルサ選手最後のセリフだった。