68 ふたりのバスク人選手(93−94)

1992−93シーズンが、前年のウエンブリー制覇を果たした同じメンバーを起用することにより新加入選手の獲得がなかったのに比べ、この新たに始まる1993−94シーズンには何人かの選手が加入してきている。スポルティングからイバン・イグレシアス、テネリフェからキケ・エステバランスが、カンテラからはセルジ・バルジュアン、キーパーのブスケが、そしてPSVからロマリオの加入で補強は幕を閉じている。

だがクライフが狙っていた選手がもう一人いた。しかもその選手はかなりの確率でバルサに入団する“はず”だった。その選手の名はフェルナンド・イエロという。マラガからマドリに移籍してから何年かたち、シーズンごとに成長を遂げているディフェンスの有望株選手だった。彼が前シーズンをもってマドリとの契約が切れることを知っていたクライフの要請で、バルサ首脳陣は前年のシーズン途中からすでに獲得に動いていた。経済的な条件面でほとんど合意に達した8月、彼はマドリッドからバルセロナに向かい正式なサインをする“はず”だった。事実、彼はガスパー副会長の経営するホテルの一室にまで来ていたのだ。だが最後の段階でこの交渉に気づいたマドリ理事会がイエロ居残りををかけて大攻勢にでる。バルサが提示した年俸額の3倍を用意したのだ。そして今では誰もが知るように、彼はマドリのカピタンとして活躍を続けている。

加入してくる選手がいれば当然ながらクラブから去っていく選手もいる。ディフェンスの補強を一人もおこなわなかったクライフバルサだが、奇しくも退団を決意したのはディフェンスの選手だった。ラモン・アレサンコ、バルサのカピタンを長い間務めた歴史的な選手。37歳となった彼はバルサを現役最後のクラブとして退団を決意した。

「自分はバルサの選手の一人に過ぎない。それはいつのシーズンでも同じでカピタンマークを付けていようが22人の選手の中の一人に過ぎない。ただ一つだけ他の選手と違う役目があるとすれば、もし大多数の選手が監督に何かを要望したい時とか、あるいは監督やクラブ理事会のメンバーが選手に何かを要望した時とかに自分が彼らの間に入ることだ。すべてがうまく流れスムーズにことが運ぶように、内部で発生した問題を外部に出さないようにすることが自分の務めだった。」

1956年5月19日にバスク地方で生まれたアレサンコは、1980ー81シーズンにビルバオからバルサに移籍している。当時の移籍料としては破格の1億ペセタというものからもわかるように非常に期待されていた選手だった。そして1988年にクライフが監督に就任するまで、彼は実に7人の監督交代劇を目撃している。8年間で7人の監督が彼のボスとして登場してきている。エレニオ・エレーラに始まり、クバーラ、ウド・ラテック、ホセ・ルイス、セサー・メノッティ、テリー・ベナブレス、ルイス・アラゴネス。アレサンコはどの監督指揮下でも選手代表としてのカピタンを務めてきたし、しかもどの時代も非常に難しい時代だった。それだからこそ監督と選手の間に入っての潤滑油的な立場を彼は自分の役目としてきたのだろう。それはクライフが来てからも同じだった。

アレサンコはルイス・アラゴネスが監督を務めているときに起きた“エスペリアの反乱”の首謀者の一人でもある。多くの選手がフットボール史上異例とも言える“会長辞任”を要求をした事件だ。この事件は当時副会長であったジョアン・ガスパーの活躍でクラブ首脳陣の勝利となり、その後クライフの監督就任と共に多くの選手がパージを喰らうことになる。だが首謀者のアレサンコだけはそのパージから逃れることができた。それはクライフが彼に対して絶大の信頼感をもっていたからだ。その信頼感は彼が引退を決意するこの年まで続くことになる。それは次のようなクライフの言葉を聞くとさらに明らかになる。
「彼はあらゆる意味において選手間のボスだった。それも状況が難しければ難しい時ほど必要になる本物のボスだった。監督としての立場の自分が言うのはおかしいかも知れないが、選手たちにとってアレサンコの抜けた穴を埋めるのには非常に時間がかかるだろうと思う。彼みたいなリーダーが再び出現するには時間が必要だろうから。」

アレサンコはバルサ選手として393試合に出場、17のタイトルを獲得し41ゴールをあげている。

アレサンコが抜けたことにより、アンドニ・スビサレッタが“エスペリアの反乱”を経験している唯一の生き残り選手となった。1961年10月23日、やはりバスク地方で生まれている彼はこのシーズンに入るときにはすでに32歳となっている。だがバルサはもとより、スペイン代表でも絶対のスタメン選手を続けているベテランだった。

バルサのカンテラ組織が多くの優秀な4番選手を生み出すことに特徴づけられるように、バスク地方は多くの優秀なキーパーを生み出す土地であった。ビルバオ選手時代は、スペインが生んだ最大のキーパーと呼ばれていたバスク人キーパーのイリバールをベンチに追いやり、スペイン代表ではやはりバスク人キーパーであるアルコナーダをベンチに追いやった。バルサに入団してきたときも同じだ。正キーパーとして絶大の人気があったバスク人キーパーであるウルッティをやはりベンチに追いやり正キーパーの座についている。

彼は決して派手なキーパーではなかった。したがって横っ飛びでボールをはじくシーンや、スペクタクルなセービングシーンも見せないスポーツ写真家泣かせの偉大なキーパーであった。彼の特徴はなんと言ってもポジショニングの良さにあると言われている。そして何よりも彼のリーダーとしての才覚がディフェンスの選手に冷静さを与えることを特徴としている本格派キーパーだった。だがどのような優秀な選手にも“永遠”がないように、彼にもまた終わりがやってこようとしていた。

クライフが彼の延長契約に反対することにより、このシーズンが終了すると共にスビサレッタはドラマチックな形でバルサを去ることになる。その傾向はすでにシーズン開始時にクライフのとった態度に見られる。これまでアレサンコが試合に出場しないときのカピタンはアンドニー・スビサレッタだった。したがってアレサンコの抜けた今、カピタンマークを付けるのは誰しもがスビサレッタだと思っていた。だがクライフが任命したカピタンはバケーロだった。