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![]() ロマリオの加入は今まで以上のプレッシャーを外国人選手に与えることになる。もっとも、クライフにしてみればロマリオ獲得の狙いの一つがそれまでの3人の外国人選手にさらにプレッシャーを与えることにあったのだろう。クーマン、ラウドゥルップ、ストイチコフ各選手は、すでに何年もバルサでの生活を送ってきている。彼らに新たな刺激を与える時期と感じたのかも知れない。それはこのシーズンのプレゼンテーションがおこなわれた1993年7月23日のクライフの発言からも推測できることだ。 1993年9月5日の開幕戦はカンプノウでのレアル・ソシエダー戦。試合そのものより多くの注目を浴びたのは誰がベンチスタートとなるかということだった。加入してきたばかりのロマリオか、あるいはストイチコフか、はたまたラウドゥルップか。誰しもが疑わなかったのは、チームのリーダーとしての確固たる地位を築いているクーマンのスタメンだけだった。そして試合前に発表されたスタメン選手の中になかった名前は、そう、出場が唯一確実と見られていたロナルド・クーマンだった。クライフによって最初に選ばれた犠牲者はクーマンだった。 ロマリオのハットトリックで勝利したこの試合後に、なぜクーマンを控えに選んだのかという質問にクライフは沈黙を守っている。初めてのベンチスタートの感想を聞かれたクーマンも、また沈黙を守り通した。彼らがこの日の試合での思惑を語ることになるのはシーズンが中盤にさしかかってきたあたりだ。 だがこれまでの絶対スタメン生活が脅かされ始めたのは彼ら外国人選手だけではなかった。クライフはこのシーズンから色々と新しい空気を注入しようとしていた。その一つの的となったポジションがキーパーだった。カンテラ上がりのブスケがスビサレッタのポジションを徐々に脅かし始めていた。エウセビオもまた、今シーズン加入してきたイバン・イグレシアスに試合出場を脅かされようとしていた。
カンプノウ最大のモザイクが観客席を埋めていた。アスールグラーナの色で埋め尽くされる10万カンプノウ。最初のゴールはロマリオのスペクタクルな“コーラ・デ・バカ”で生まれる。そして2点目は後半4分、クーマンのフリーキックから。さらにロマリオが2点入れハットトリック。そして最後の5点目は途中出場してきたイバンがロマリオからのパスをゴール枠内に沈めるものだった。5−0、20年前クライフが現役だった頃のベルナベウでの0−5という結果を思い出す多くのバルセロニスタがいたことだろう。 スペクタクルなフットボールでスペクタクルな結果をだしたバルサだが、不安定さが消えたわけではなかった。いや、それどころかこのクラシコが終わってからのバルサはさらに不安定な成績を残すことになる。まずセビージャと引き分け、ソシエダーに負け、地元カンプノウでビルバオに負けたあと、サラゴサで6−3と大敗するバルサ。2月の中旬のことだった。バルサはこのサラゴサ戦の敗北により1か月前には思っても見なかった奈落の底に落ちることになる。クラブ首脳人、コーチ陣、選手たち、すべての人々が真剣に現状分析する必要性に迫られていた。 この試合を契機にいったい何が変わったのか、シーズン終了後にそれを正確に説明することができる選手は一人もいなかった。選手だけではない、監督のクライフも説明することが不可能だと語る。だが彼らの何が変わったのかは別として、試合結果だけは確実に変化していく。これまで不安定な成績を残していたバルサが大が付くほどの快進撃を開始する。 第24節・2月19日 バルサ・オサスナ 8−1 オサスナ戦に8−1と圧勝してからというもの、ベルナベウでのクラシコに勝利するまで14試合12勝2分けという驚くべきペースでポイントを稼ぐバルサだ。残るはリーグ最終戦となるセビージャを迎えるバルサは、首位を走るコルーニャに1ポイント差と迫っていた。直接対決ではコルーニャよりバルサが優っているため、もし同ポイントでシーズンを終了することになればバルサの優勝となる。 1994年5月14日、コルーニャは地元にバレンシアを迎え、バルサも地元にセビージャを迎えることになる。 |
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