75 アテネ以降の始まり(94-95-96)

クライフの語る“新たなサイクル”の始まり、それは文字通りクライフバルサにとってこれまでにない“新たな局面”に入ることを意味した。これから始まる2年間、つまり1994−95、1995−96シーズンはクライフバルサの全盛期である“ドリームチーム”が文字通り崩壊していく過程となり、決して肯定的な意味での“新たなサイクル”の始まりとはならなかった。

例えば、カンテラの選手が一部チームでデビューを飾ることは決してやさしいことではないが、それ以上に難しいことはそのカテゴリーを維持することだろう。それと同じように、一つのクラブがヨーロッパの頂点に立つことも決してやさしいことではないが、それ以上に困難なことはその頂点という位置をキープすることだ。そして今、これまで頂点を極めた多くのクラブがそうであったように、クライフバルサもヨーロッパの頂点から下降線を、それも急カーブの下降線をたどることになる。

“ドリームチーム”がクライフの手によって創造されたきたように、その解体もクライフの手によっておこなわれることになる。それはこの2年間に彼がおこなった放出・補強作戦がまったくの失敗に終わったことを見るだけで明らかだ。

1994−95シーズンに多くのの選手が加入してきている。ハジ、アベラルド、ホセ・マリ、エスカイチ、コルネイエフ、サンチェス・ハラ、エスクルサ、この中でハジとアベラルドを除いたすべての選手が翌年には放出されることになる。クライフの計算によれば彼らはラウドゥルップ、サリーナス、ゴイコエチェア、フアン・カルロス、キケ・エステバンなどの放出された選手の穴埋めとなるべき選手たちだった。その翌年にも、つまりクライフにとって最後の年となる1995−96シーズンにも大量に選手が加入してきている。コドロ、ポペスク、クエージャー、プロシネッキー、そしてルイス・フィーゴ。だが、ポペスクと最後の人物を除いてそれ以外の選手たちはついに期待通りの活躍を見せることなくバルサを去っていく。

スポーツ選手にとって致命的な“負傷”という不運、試合出場の“継続性”がなかったという不運、各方面からの多くの“プレッシャー”につぶされていく不運、新たに登場する”監督の方針”に合わなかったという不運、クライフが獲得した選手すべてにバルサでプレーする実力があったかどうかは別として、何らかの不運で期待通りの活躍を見せることのできなかった多くの選手たち。その後の歴史を見る限りクライフ以外の監督のもとでも活躍していったのは、フィーゴとアベラルドのみであった。

“結果”がでないとありとあらゆる“結果論”が登場してくるのが世の常であるように、“結果”をだせなかった当事者間においてもそれぞれの部門での不信感を生み出すことになる。まさにこの時期のバルサがそれであった。クライフがバルサの監督に就任してから7年もの年月が経過していた。すでにクラブ史上において、最長の期間にわたって監督を務めた人物となっている。最初の年にはレコパを制覇、2年目は国王杯を獲得してどうにか面目を保ったクライフ。そして3年目から4年連続してリーガを制覇し、バルセロニスタ念願のヨーロッパチャンピオンにもなった。だが、戦う前から2度目のヨーロッパカップ制覇達成を楽観視していたアテネでの決勝戦敗北は想像を超える打撃を与えることになる。それはグランドを走りまわった選手たちだけではなく、彼らを指揮したクライフ、そして彼の思うままにやらせていたクラブ首脳陣に与えた打撃も相当なものだった。この“新たなサイクル”としてスタートする1994−95シーズン、クライフバルサとしては初の無冠で終わることになる。

クライフが期待した通りの活躍を見せない新加入選手たち。シーズンを通じて歯車がかみ合わない状況が生まれてしまった。その結果、多くのメディアが言及する結果論と共に、クライフに対するいくつかの誹謗と中傷が生まれてくる。

バルセロニスタを前にして挨拶することも許されずクラブの裏口から追い出されるように去っていったスビサレッタは、その後4年間にわたってバレンシアで“スペイン代表としてのスビサレッタ”として活躍している。彼の控えとなっていたブスケが正キーパーとしてバルサゴールを守ることになるが、果たして彼にその実力があったのだろうか。そして彼のあとに控えとなってベンチに入ったのはクライフの娘婿のアンゴイ。スビサレッタがいる限り決して一部チームに入ることなど実現しなかったと思われるアンゴイがベンチに入った。

シーズン途中で抜けたロマリオの穴を埋めるのに最適な人物であるサリーナスはもういない。エスパニョールから自由契約となったエスカイチが、あるいはこの翌年に入団してくるコドロが、あるいは、そう、あるいはクライフの息子であるジョルディがその穴を埋めていくことができるのか。彼と同じようにバルサBで活躍していたデンマーク生まれのカンテラ選手であるクリスティアンセンという若者はなぜ一部チームに上がってこないのか。バルサBで得点王となっていた彼が依然として下のカテゴリーに残り、なぜジョルディが一部に上がってきたのか。そして、ジョルディがバルサBでプレーしていた時には必ずミニエスタディに来ていたクライフは、息子が一部に上がってからというものなぜスタディアムに姿をあらわさなくなったのか。あまり創造的ではない“批判”や“疑問”がクライフに対して突きつけられ始めた。

これまで3年間続いてバルサは最終戦に逆転劇を演じてリーグ制覇を果たしてきた。このシーズンもバルサにとっては大事な最終戦となっている。だが首位を争う試合でもなければ、チャンピオンズ参加をかけた試合でもなかった。このシーズンの最終戦は4位をかけてのもの、つまり翌年のUEFAカップへの出場権をかけてのものだった。ビルバオに行ってのアウエーの試合にもし負けるようなことがあれば、バルサにとってクラブ史上初のヨーロッパ不参加となる意味での大事な試合。クライフバルサにとって幸運なことに歴史的な“大惨事”だけは避けられることになる。0−2という結果でバルサは勝利をおさめ、翌シーズンもヨーロッパへの大会に参加できる権利をどうにかこうにか獲得することができた。

だが、それでも、クライフバルサは急カーブの下降線を描いたまま、翌シーズンに入ろうとしている。