77 マシア育ちのカンテラ選手(94−95−96) 

スペイン各地から、あるいは世界各国から、バルサが抱えるスカウトマンたちからクラブ事務所にありとあらゆる情報が毎日のように送られてくる。それはすでに各地のリーグで活躍を見せそうな若手選手に関するものであったり、あるいは、そう、まだ10歳程度の子供のフットボール選手のそれであったりする。

バルサと契約した、そういう子供たちが共同生活するところがマシア寮だ。家族がバルセロナに住んでいない子供たちをクラブが所有するこの寮に引き受け、フットボール選手としてだけではなく成長過程にある子供たちに一般教育を与えて社会に通用する若者として育てていくことも寮のモットーとなっている。寮の前には練習場があり、一部チームの選手たちもここで練習をおこなうことが多い。両親と一時的に別れこの寮に住む子供たちは、部屋の窓から見える練習場やカンプノウを見て育っていく。いつかはあのカンプノウで、そう、いつかは一部チームの選手としてあのカンプノウでプレーすることを夢みる子供たち。

バルサの下部組織はクラブの誕生とともに組織化されている。だがこのマシア寮が誕生したのはクラブ会長がヌニェスとなってからだ。つまりこの時代からさかのぼること約15年前に誕生していることになる。この間、将来を期待される多くの子供たちがこの寮生活を体験してきている。だが現実は厳しい。誰もがグアルディオラになれるわけではなく、それどころかカテゴリーを登りつめていく過程で、いつかは荷物をまとめて両親のもとに帰らざる終えなくなる子供が圧倒的だ。憧れのカンプノウをあとにして、彼らは現実の厳しさに唇をかみながら両親の待つ出身地へと帰っていく。

この15年の歴史をもつマシアから、一部チームの選手としてデビューを飾ることができた選手は1割程度と言われている。つまり10人に1人という割合となる。そして幸運にもその1人に選ばれたエリートともいえる若者でさえ、バルサというクラブに残って活躍するのはさらに10人に1人程度の確率となる。一部チームでデビューを果たしながらも、残りの9人はカテゴリーを維持できなかったり、他のチームへと移籍したり、あるいは移籍の交換要員としてバルサを離れていく運命となる。

クライフバルサの最後となる2年間に起きたカンテラの動きについて触れておかなければならない。バルサの歴史上、もっとも多くのカンテラ選手が一挙にデビューを飾った時期だからだ。ジョルディ・クライフ、アンゴイ、ルイス・センブラーノス、カレーラス、オスカーとルジェールのガルシア兄弟、トニー・ベラマサン、キケ・アルバレス、セラーデス、そしてイバン・デ・ラ・ペーニャたち。これだけ大量のカンテラ選手がカンプノウでデビューすることになる。だが残念ながら、彼らの誰一人として“バルサの一部チーム”という頂点を維持することを可能にした選手がいない。少なくとも2003年現在、彼らの誰一人としてバルサに在籍していない。

そしてクライフとカンテラの関係について語るとき、彼がもっともカンテラ選手を起用してきたとして評価するのは間違いであると共に、過去のどの監督よりもカンテラの面倒を見てきた、として評価するのも誤りだろう。

バルサはいつの時代でも多くのカンテラ選手を起用してきている。バルサというクラブの一つの特徴と言い切ってもおかしくない。クバーラが活躍していた1950年代もそうだったし、クライフやレシャックが活躍した時代も同じだった。常に5人、6人のカンテラ選手がグランドに存在した。それはマラドーナやシュステルを擁したメノッティの時代も変わりなく、常に多くのカンテラ選手がスタメンとして活躍していた。そのカンテラ選手がグランドから一挙に消え去ることになるのは皮肉にもクライフの監督就任となった年からだった。この年に多くの補強選手を獲得したクライフは、それまでベナブレスやルイス・アラゴネス時代に主役選手となっていたカンテラ選手を一挙に放出することになる。そのクライフが最後のシーズンとなる年に再び大量のカンテラを起用することになるのは何とも皮肉なことだ。

カンテラに関することでの功績にも触れておかないと不公平となるだろう。最大の功績、それは次のことによる。すべてのカテゴリーで、それは10歳程度の子供がプレーするベンジャミン・カテゴリーからバルサBまでに至るまで、すべてのカテゴリーで一部チームと同じシステムでプレーさせるようにしたことだ。この一点において彼は評価されるべきだろう。クライフバルサの徹底、それはこのバルサ100年史で登場してきた“クライフバルサ上・中・下”で説明されていることや、グアルディオーラがインタビューで語っているポジションの役割を徹底することを意味する。つまり3番の選手、4番の選手、6番の選手、8番の選手、数字で表されるポジションの役割の徹底だ。したがって彼らは所属するカテゴリーが変わっても同じようなポジションで同じようなプレーを要求され、これまで学んできたことを実行すればよいだけとなる。

このシーズン、いくつかの偶然がカンテラ選手に味方することになる。5年か10年に1回程度出現するカンテラの“旬”の時期にあたったこと、クライフによる多くの新補強選手作戦のミスがあったこと、そしてシーズン途中で多くの負傷選手を生み出すという時期が生まれたこと。

1995年10月7日、リーグ戦第7節の試合がセビージャでベティスを相手に行われようとしていた。この日バルサは多くの故障者と国際試合のために何人かの外国人選手が不在になっていた。いよいよカンテラの出番だ。
スタートメンバーは、ブスケ、フェレール、セルジ、トニー・ベラマサン、ルジェール、モレーノ、カレーラス、オスカーの8人のカンテラ出身選手、それにアベラルド、ナダール、フィーゴが加わり11人のメンバーを構成していた。そして途中交代で入ってきたのが、グアルディオーラ、デ・ラ・ペーニャ、セラーデス。いまだかって、これほど大量のカンテラ出身者が一緒にプレーをしたことはなかったという意味で歴史に残る試合となった。試合は1−5でバルサの圧勝という結果に終わる。