78 イバン・デ・ラ・ペーニャ(94−95−96) 

“イッバン、イッバン、イバンデッラーペーニャ!”
“イッバン、イッバン、イバンデッラーペーニャ!”
“イッバン、イッバン、イバンデッラーペーニャ!”

カンプノウでのデビューを飾ったものの、バルサBの選手としてミニエスタディでの出番が多いデ・ラ・ペーニャ。クライフはなかなか彼を一部チームの固定選手として起用しない。ある週末はカンプノウ、そして次の週末はミニエスタディ。だが彼に対する応援風景だけはカンプノウでもミニエスタディでも変わらない。ミニエスタディが創立されて以来、個人の選手に対してこういう形で応援がおこなわれるのはもちろん初めてのことだ。

一つの推測、だが多くのジャーナリストやバルセロニスタに共通する一つの推測、それはクライフがデ・ラ・ペーニャの存在を持てあましているというものだ。あのクライフが18歳の少年を持てあます、果たしてそんなことがあり得るのだろうか。

クライフは自ら認めるように“水の流れに逆らって”生きていくタイプだ。それはプライベートな人生だけではなく、フットボールの世界でも同じこと。フットボールスタイルが保守的な時代に入っていたにも関わらず、彼はディフェンス選手を少なくしてその分を攻撃陣に回した。彼が監督に就任するまで背広組が選手控え室に入ることは常識であったにも関わらず、“ここは選手だけのスペースだ”とばかりクラブ首脳陣の出入りを禁止した。ディフェンス選手の移籍料としては常識を越えた金額を支払いクーマンという選手を獲得した。ガンペル杯でデビューした彼を見たバルセロニスタがあまりにもスロータイプな選手として批判したものの3か月後にはクライフの判断が正しいことを証明した。ユベントスの控えである選手を獲得してきたり、東側にある国の兵隊さんを“第二のウーゴ・サンチェス”として獲得してきた時も同じだった。カルッチオでの控え選手や東側の無名の選手がバルセロニスタの心を掴むまでに時間はほとんど必要なかった。バルサBでもパッとせず、吹けば飛ぶようなやせ細った身体を持つグアルディオーラという選手を一部チームにあげて起用した時も、多くの疑問がささやかれた。だがバルセロニスタがもったその疑問を消すのに3か月程度の時間が必要なだけだった。そして今、多くのバルセロニスタがデ・ラ・ペーニャの一部チームでのプレーを望んでいる。だが監督は“水の流れに逆らって”生きるヨハン・クライフだった。そう簡単にはバルセロニスタに同調しない。

「カンテラにはデ・ラ・ペーニャだけではなく多くの才能ある選手がいる。彼だけを特別扱いすることはおかしい。しかも彼はまだまだ学ばなければならないことが多くある選手だ。守りをするテクニック、そしてボールを持っていないときの動き、それらをバルサBで学んでいかなければならない。」
だが、そう語るクライフの言葉を信用する人は少ない。

そして一つの推測が生まれる。クライフはデ・ラ・ペーニャを持てあましているのではないか。彼に関しては気に入らないことが多すぎるのではないか。例えば、そう、例えば、彼の代理人はストイチコフと同じミンゲージャだ。これまでさんざんクライフと揉めてきたミンゲージャ。デ・ラ・ペーニャの父親は息子のために多くのクラブ関係者と接触し、移籍の可能性を臭わせてきたことで有名だ。そのおかげでヌニェスはバルサBカテゴリー在籍の選手としては異例の高額な年俸をクライフに相談なしに決めてしまった。ストイチコフはストイチコフで「デ・ラ・ペーニャは俺の後継者だ」とまでメディアに語っている。これまではクライフがデビューさせたことで人気者となる選手が多かったのに、デ・ラ・ペーニャだけはすでにデビュー以前からバルセロニスタの注目を浴びている選手だった。それも気にくわなかった、かも知れない。

推測を通り越しての一つの真実、それはクライフにとってデ・ラ・ペーニャは“異例の選手”だったことだ。それは“想像外の選手”と言ってもいいかも知れない。これまでも触れてきたようにクライフは下部組織のチームにすべて同じシステムでのプレースタイルを要求してきた。下部組織に所属する少年たちは当然ながら自分と同じポジションでプレーするバルサのスター選手たちに注目することになる。子供たちのことだ、3番の選手はクーマンの走り方そっくりとなったり、4番の選手はグアルディオーラのボールの蹴り方そっくりのプレーをすることになる。クライフはそれで満足だった。だがデ・ラ・ペーニャだけは違っていた。彼はあくまでイバン・デ・ラ・ペーニャだった。クライフのイメージする4番の選手でもなく、かといって6番の選手でもない。もちろん8番の選手でもない。彼は“異例”であり“想像”できない選手、つまり“唯一”の選手だった。そう、イバン・デ・ラ・ペーニャは確かに唯一の選手だった。

この時期にミニエスタディを飛び出してカンプノウでプレーするようになる“キンタ・デ・ミニ”と呼ばれる多くの若者の中で、クライフの一番のお気に入りはセラーデスだった。彼はまさにクライフにとって“理想的”で常に“計算”できる選手だった。4番として起用すればまさしく4番スタイルの選手となり、10番として起用すれば生まれつき10番としてプレーしているようにみえる選手だったからだ。試合後の選手評価をする場合に、セラーデスは決して10点という評価を得る選手ではなかった。だが常に、どんな試合であろうと8点という決まった評価を得る選手だった。それがまたクライフの気に入るところだった。

だがデ・ラ・ペーニャはどんな試合であろうと10点を狙う選手だ。彼が意識しようがしまいと、彼は常に11人の中の1人という存在ではなかった。例えば彼の生まれ故郷であるサンタンデールの少年チームでプレーしているとき、7歳の彼と一緒にプレーするのをチームメートの誰もが嫌がった。なぜならデ・ラ・ペーニャはまるで14歳の少年のようなプレーをするからだ。14歳になってその年代のカテゴリーでプレーしても同じように嫌われた。なぜなら彼はまるで18歳の若者のようなプレーをしたからだ。

推測はあくまでも推測でしかない。クライフとデ・ラ・ペーニャの関係はあらゆる推測が生まれるほど複雑な様相を見せたものの、残念ながら彼らの関係はわずかな期間でしかなかった。なぜならデ・ラ・ペーニャをデビューさせたクライフはその翌年にはクラブを去ることになるからだ。もしクライフが監督を続けていればこれらの推測に何らかの答えがでたかも知れない。だがその時間は存在しなかった。

クライフにとって“異例の選手”だったデ・ラ・ペーニャはロブソンにとっては“仕方のない選手”となる。ロブソンフットボールにデ・ラ・ペーニャのプレースタイルは問題外だった。ロナルドの強い要請がなければまったくの計算外の選手として位置づけられていただろう。そしてバン・ガールにとって、彼は“完成されていない選手”となる。一つの駒として動くことを知らず、守ることを知らず、それにも関わらずあまりにもスター選手として扱われ過ぎていた。

イバン・デ・ラ・ペーニャ、彼はバルサの選手として歴史に残るような活躍を見せたわけではない。長い期間クラブに在籍して多くのタイトルをとったわけでもない。だがそれでも歴史に残る選手だった。なぜなら彼は“唯一”の選手だったからだ。彼はイバン・デ・ラ・ペーニャ、誰かをコピーしたわけではなく、コピーされることも不可能な“唯一”の選手。それがイバン・デ・ラ・ペーニャだった。