79 ヌニェスとクライフ(94−95−96) 

シーズンが開始される何日か前におこなわれるカンプノウでの“お披露目”要素的なガンペル杯。新しく入団してきた選手紹介的なこともおこなわれるし、クラブを去っていった選手を招待してセレモニーをおこなうこともある。

1995−96シーズン開幕を前にして、例年通りカンプノウでガンペル杯がおこなわれた。だがバルサというクラブにとって、そしてバルセロニスタにとって少々特別な意味を持つガンペル杯でもあった。この年にクラブを離れることになる“ドリームチーム”を形成してきた二人の超大物選手が招待され、彼らににサヨナラを言うことになるからだ。1989−90シーズンのガンペル杯で入団挨拶をおこなったロナルド・クーマン、そしてその翌年に同じようにガンペル杯で挨拶をおこなったウリスト・ストイチコフ、彼らはそれぞれフェイノルド、パルマへと移籍していくことになった。

すでに32歳となったクーマンは、バルサとの契約も終了していた。退団の意志も前シーズンが終了する前に発表されていた。オランダに戻りプレッシャーのないところで最後の選手生活を送りたいとのことだった。だがストイチコフの場合はちょっと違う。彼はまだ1年の契約を残していたからだ。そして彼自身は何回となくバルサに残る意思表示をしていた。

バロン・デ・オロを獲得して以来、ストイチコフとクライフの衝突は日常茶飯事のようにメディアを騒がせていた。敗戦するたびにクライフはストイチコフのグランドでのおこないを批判し、それを受けてストイチコフも反論する。いつ彼らの関係が最悪の事態を迎えてもおかしくない状況であった。そしてそれを決定的にしたのがストイチコフの次の発言だ。ブルガリアのジャーナリストの質問に答えてのものだった。
「アテネ以降に入団してきた選手の半分以上はブルガリアリーグの3部カテゴリーでプレーしているような選手ばかりだ。しかも親族ということだけで起用されている選手までいる。」
その後ストイチコフはこの発言を否定している。だが真実であれ誤報であれ、すでに彼に対する判決は決定的となっていた。

ガンペル杯には来られなかったものの、忘れてはならない二人の選手がやはりこのシーズンを前にクラブを離れている。セルタに移籍したエウセビオ・サクリスタンと、ラ・コルーニャに移ったチキ・ベギリスタインだ。“ドリームチーム”の中にあってブラジル代表選手以上のテクニシャンとロマリオに評価されたエウセビオと、もっともインテリジェンスにあふれた選手としてクライフに評価されたチキ、彼らもまたバルサを離れる時期となった。

クライフとストイチコフとの関係以上に悪化してきていたのが、クライフとヌニェスのそれだった。もちろん、これまでクラブ会長ヌニェスと監督クライフが何の衝突も事件もなくシーズンをおくってきたわけではないことはこれまで何回も触れてきている。それでも決定的な衝突とならなかったのは、毎シーズン終わってみれば“結果”がでていたからだ。二人の強烈なキャラクターを持つ人物がこれまで決定的な衝突を見なかったのは、“結果”が潤滑油となってその衝突を防いできたからだった。だがここ2シーズン、その潤滑油が切れてきている。クライフがおこなってきているチーム構想はどうひいき目に見ても成功しているとは言えなかった。このシーズンに加入してきた選手でも、1年目としては比較的よくやっているフィーゴ以外まったくの期待はずれな状態。これまでクライフの独断的な行為に我慢してきたヌニェスにとって、ついに決断を迫られる時となっていた。

ヌニェスには、会長に就任してから、それまで赤字経営が続いていたクラブをわずかな期間で黒字経営へともっていったという自負がある。マシアという寮やミニエスタディを作り、カンテラ施設の充実を図ってきたことにも自負がある。ソシオの数を増やしたりカンプノウの収容人員を増やしたり、グランドに隣接して博物館を作ったりした功績は誰しもが認めるところだ。だが、その彼と“敵対関係”にあると言っても大げさではない人物は、ヨーロッパ最強の“ドリームチーム”を作りこれまでのクラブ歴史にないほどの成績を残してきているとの自負がある。そして困ったことに、彼らはお互いに強烈なキャラクターをもった人物だった。

ヌニェスにとって決して愉快なことではないものの、“結果”がでている以上これまで通り放置しておかなければならないことがあった。それはクラブの金庫の“鍵”をクライフに握らしておくことだった。監督兼ジェネラル・マネージャーと呼んでいいクライフは、選手の放出・獲得に関しては1人で決断していた。彼の決断を伝えられて、放出選手の移籍先を見つけたり要求された選手の獲得に動くこと、それがクラブ首脳陣の仕事だった。そう、“結果”がでていればそれも許された。だがこの2年間にわたってタイトルから見放され、しかもこれまで活躍してきた選手の放出の仕方が“紳士的”でないことも不愉快だった。多くのメディアやバルセロニスタに対して、クラブのイメージを非人間的なものとして悪くしていることが気になっていた。

このシーズンにおけるタイトル獲得の可能性は4月の中旬にはすべて消え去っていた。国王杯では決勝戦でAt.マドリの敗戦し、UEFAカップでもバイエルン相手に敗戦し、リーグでもアンティック監督を擁する首位のAt.マドリに大きく離されていた。そして何よりも問題であったのは、クライフバルサに“明日を期待させる”要素がまったく見られなかったことだ。監督は選手を批判し、選手たちは沈黙しているもののクライフのやり方に不満をもっていることは明らかだった。

5月に入りバルサはカンプノウでセビージャ相手に1−1と引き分け、次の試合でもエスパニョール相手にやはり1−1と引き分けという結果に終わった。そしてそのエスパニョール戦が終わってから3日後、つまり1996年5月18日、カタルーニャメディアだけではなくマドリッドメディアも参加しての同じ内容の“爆弾記事”が各紙一面を埋める。

“ヌニェスとガスパーがマドリッドでロブソンと密会”

そしてその日の午前中にクライフはバルサの監督の地位から降ろされることになる。翌日にカンプノウでおこなわれるセルタ戦も含めてシーズン残り2試合というところで、クライフはバルサを強制的に追い出されることになったのだ。これまで“ドリームチーム”を形成してきた何人かの選手が決して“紳士的”な退団ができなかったように、クライフもまた“クライフスタイル”の退団を強いられることになった。