ちょうど5年前の今ごろ、つまり2003年の夏、“こちらカピタン”にバルサカンテラ最新の宝石と題して、彗星のごとく?ボージャンの名が登場してきている。
「ゴールを奪うことがボクの仕事。もしそれがうまくいかないときはイライラするんだ、自分に対してね。でもゴールは自分だけの力で生まれるものじゃない。チームが一つになったときに生まれるものなんだ。」
これが今年12歳(注・実際には13歳。5年前の間違いはもう時効だ)になるバルサカンテラ最新の宝石ボージャン・ケルキック君のお言葉だ。
彼の名前を初めて聞いたのは2年前。ヤゴが話題になったときにヤゴからのパスをよくゴールしている選手がテレビに写されていた。それがボージャンという名前だった。
一番下のカテゴリーであるベンジャミンカテゴリーで226ゴール、アレビンBで69ゴール、アレビンAで92ゴール、そして昨シーズンはインファンティルBで36ゴール、バルサカンテラのすべての記録を塗りかえたボージャンはこれまで合計で423ゴールを決めている。そしてこれらの423ゴールの思いではすべて彼のノートに記録として残されているという。ゴールの感触を忘れないために、ゴールするごとにその夜にノートをつけるボージャン。
お母さんはプジョーの生まれ故郷であるレイダ県の人、そしてお父さんは元レッド・スターの選手だったというユーゴスラビア人。ボージャンのアイドルは二人、一人はパトリック・クルイベル、そしてもう一人はカルラス・プジョー。クルイベルはデランテロとしての見本となる選手であり、多くの批判がありながらもヨーロッパ最高のデランテロだと思っているという。そしてプジョーはカンテラの鏡であり、将来は彼のようにバルサエスクードを肌に染みこませてグランドを走り回る選手になりたいから、なそうな。パトリックのようなデランテロセンスを持ち、カルラスのようなハートを持った選手、これは凄いぞ。
この最新の宝石を見つけたのは誰か、そう、それはもちろん、今は亡きオリオル・トルトさんだ。彼が生前に見つけた最後の宝石だ。
そしてそれから4年たった去年のちょうど今ごろ、バルサ一部デビューを飾り“ボージャンデビュー”と題して、次のようにボージャン家にかんして触れてみた。
今からほぼ4年前、フベニルカテゴリ以下のチームが使用していた、いまは無き第四スタディアムでインファンティルAの試合を観戦に行ったとき、噂に聞いていたボージャンという坊やがプレーしているのを初めて見る幸運に恵まれた。インファンティルAチームを構成する選手たちはだいたい13歳程度の少年たち。したがって、みな小さい。当然ながら、このようなカテゴリーにあって特に目立つことになるのは、運動量の多い選手とかフィジカル的に恵まれた選手となる。だが、このチームはなかなか個性あふれる選手が何人かいることに気づく。
8番の背番号をつけた、背は高くないもののやたらと頑丈な感じがするフラン・メリダという選手や、運動量も多くなくフィジカル面でもごく普通ながら、やたらと目立つ動きをする11番ヤゴ・ファルケ、そして誰よりも小さいながら非常に運動量が多いだけではなく、ゴールをバシバシという感じで決めまくる9番ボージャン・ケルキック、この3人がとてつもなく印象に残るチームだった。
この年から2年ぐらい前にはメッシーという少年が、そして1年前にはジョバニという少年がこのカテゴリーでプレーしている。たまに彼らのプレーする試合を観戦に行くと、とても人の良さそうな印象を受ける40歳前後の男性が、いつも同じ場所に座っていた。ある時には奥さんと思われる女性と一緒だったり、ある時は友人と思われる人々に囲まれて座っており、そしてある時は一人で試合観戦している。その熱心なカンテラファンだと思われた人が、ボージャンの父親だとわかったのはこの試合が終了したあと、すぐにボージャン少年がやって来て彼の隣に座り、次のカデッテAチームの試合を見始めた時だ。こういうシーンはボージャンがフベニルカテゴリーに上がってくるまで見られることになる。
父ボージャンは息子ボージャンに、時間が許す限りバルサインフェリオールカテゴリーの試合を観戦するように教育している。その教えを守っていたからこそ、どんなカテゴリーの試合を観戦に行っても必ず彼の姿が見られた。もちろん、父ボージャンの姿も同じように観客席に見られることになる。もっとも、彼の場合は息子の試合観戦という父親としての楽しみと、バルサカンテラ組織職員としての仕事観戦でもあっただろう。
それから時がたち、父ボージャンはミニエスタディへと観戦場所を変えていく。今年の初め頃から、彼はバルサBの試合を観戦する父ボージャンと変貌している。さらに今シーズンからは、彼の試合観戦場所はカンプノウへと移り行くことになるだろう。
昨シーズン、ミニエスタディ観客席で父ボージャンの姿を見ることはやはりなかったと記憶している。カンプノウは広いのですれ違うことは一度もなかったし、まして我ら貧困族が陣取るゴール裏3階席で見かけることはあり得ない。それでも、父ボージャンは奥さんと一緒にパルコ席あたりに陣取り、息子の成長を見守っていたのだろう。息子がライカーバルサの一員となってからはバルサTVの試合解説をすることもなくなったし、メディアの前にもほとんど出てこなくなった。だが、フットボール界に生きた先輩として、そして何よりも父親として、することはしているようだ。
原点を忘れないこと、初心を忘れないこと。ファンの目に触れる公開の場ではイヤホンを付けていることと、携帯を使っていることを彼の母親が禁止させたのはすでに有名(?)な話だが、父ボージャンの方は違う形で息子に“地に足をつけ”させている。2008年に入ってから、彼のもとに4つのスポンサーオファーが来ていたという。そのうちの1つは有名な食料品関連企業であり、もう一つは、やはり有名な自動車企業からのオファーだったらしい。だが、それらをすべて丁重にお断り申し上げた父ボージャン。エリートチームに到達したばかりの、それもまだ17歳の選手にスポンサーは不似合い。頭の中をいっぱいにするのは学業のこととフットボールのことだけでじゅうぶんであり、個人スポンサーをいただくのは大人になってからで良いだろう、というのが父ボージャンの発想だ。
若い選手がエリートチームにはい上がってきた時に常に言われる言葉がある。
「一部デビューをすることは比較的簡単なことだが、その状態を維持することこそが本当に難しいこと。」
エリートチームデビューを飾って2年目となる今シーズン。9番選手の獲得こそなかったものの、彼の前にはエトーというクラック選手が立ちはだかっている。昨シーズンと同じように、彼にとって難しいシーズンとなることは間違いない。だが、それでも、彼はそういう難しい状況を劇的なゴールで打ち砕いてきた選手だ。インファンティルカテゴリーで、カデッテで、フベニルで、そしてバルサBで、難しい試合を勝利に導いてきたのは常に彼の劇的なゴールだった。そのゴールシーンが脳裏に焼き付いているからかも知れないが、彼はそういう星の下に生まれてきた選手だと信じている。シーズンが終わってみれば何気なく15ゴール。予想ではなく確信。
2008年8月28日、ボージャンようやく18歳。
スエルテ、ボージャン!
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