Lionel Andres Messi
メッシー


1987年世代
(08/05/21)

今年のサン・ジョルディの日に出版されたメッシーの本は二冊ある。一冊は当人がコメントしたことを、ゴーストライターが書き連ねた“Querido Messi"とタイトルされた本で、これは正直言ってそれほど興味深い内容ではない。そしてもう一つは“Prologo de Messi”とタイトルされたもので、これは39人のジャーナリストのそれぞれ独自のコメントを寄せ集めてできた本。とは言うものの、メッシーとは無関係な内容のコメントがほとんであり、彼に関するものはわずか二つしかない。ここで紹介するのはそのうちの一つで、エドゥアルド・ポロさんというジャーナリストが、彼のカデッテ時代のことを書いているもの。これをもって今シーズンの“こちらカピタン”を最後にしようと思う。なぜこれを紹介する気になったかというと、このエピソードに登場してくる試合風景を、実際に観戦する幸運に恵まれたからということと、当時は理解できなかった内側の風景が描写されていて、非常に興味深かったということ。そして来シーズンは、メッシーが本格的に爆発する時となるという期待を込めての意味で。

2003年4月26日、バルサカデッテチームは、シーズン最後の試合をエスパニョール相手に戦っている。バルサカデッテチームのクラック選手はもちろんレオ・メッシー。だが、この試合、彼は前半が終了する前にすでにグラウンドから姿を消している。エスパニョールの選手と激しく衝突し、頬の骨を折ってしまったからだ。グラウンドからそのまま救急車で病院に運ばれ、入院をする羽目になるほどの大怪我だった。負傷交代となった彼の代わりにグラウンドに登場してきたのは、セスク・ファブレガス。この大事な試合にスタメンに選ばれなかった悔しさもあってか、普段以上のモチベーションを持ってプレーした彼の活躍が大きく影響し、バルサカデッテチームは、3−1というスコアで勝利し、リーグ優勝を決めている。

病室で横になっていたレオ・メッシーが心配していたことは二つあった。一つは、果たしてエスパニョール戦に勝利することができて、リーグ優勝を決めたかどうかということ。そしてもう一つは1週間後におこなわれる、やはりエスパニョール相手のカタルーニャ・カップ決勝戦に出場できるかどうかという心配だった。試合が終了し、多くの仲間が見舞いにやってきてくれた。両親や監督も一緒だった。メッシーは彼らに二つめの心配事を告白する。彼を診察していた担当医はあきれ顔で、そして両親や監督、同僚たちは冗談としてその心配事を聞いていた。それはそうだ。彼の右頬は骨折しており、少なくとも全治3週間と診断されていた。そのような状態の患者が、1週間後の試合の心配をしている、それは担当医にとってはあきれた話であり、仲間にとってはジョークとしてうつった。普通の選手であるならば、全治3週間と聞いてあきらめの境地になるだろう。だが、15歳のメッシーは普通の選手ではなかった。
『フフッ、まあ、いいさ。担当医を、両親を、そして監督を説得するにはまだ1週間の期間がある。』
そう思いながら、メッシーは見舞客と別れた。

当時カデッテの監督だったアレックス・ガルシア(現フベニルA監督)はこう回想する。
「負傷具合を医者に聞いた瞬間から、決勝戦出場などということは想像だにできないことだった。だが、メッシーが必死になって医者を説得し、両親や私に試合に出られるようにしてくれと懇願する日が続くことにより、それでは何か解決策を探してみようじゃないか、そういう気にさせられてしまった。」

幸運なことに、その解決策はバルサAチームに見つかる。このシーズン、カルラス・プジョーがサン・シロでの試合でフラン・デ・ブーと衝突し、メッシーと同じような負傷を負っていた。そしてプジョーは特製の防護マスクを付けて何試合か出場していた。
「プジョーの付けていたマスクがそのままメッシーに利用できるわけではなかった。なぜなら負傷箇所が微妙に違ったことと、頭の大きさが異なっていたからだ。そこで我々は当時バルサAチームの担当医師だったリカルド・プルーナに、メッシー用のを作って欲しいと頼んだんだ。彼は嫌々ながらもOKを出してくれた。」
そう語るアレックス・ガルシア監督。プルーナ医師が気軽にOKを出さなかったのは、専門家として少しばかり躊躇するものがあったからだ。プジョーはともかく、15歳の少年にそんな危険なことをさせてまで、試合に出場させることが正しいのかどうか。それが彼の持つ疑問だった。だが、監督を始め両親の強い要望もあり、プルーナ医師は彼らに協力することになる。

「その防護マスクの存在を知ったとき、そしてそれで息子のプレーができる可能性があるとわかったとき、私はそのアイデアに全面的に賛成する気になった。もしプジョーに可能ならレオにも可能なことだと思ったし、しかも子供たちのフットボールなのだから、プジョーがプレーしているプロ選手のそれよりは遙かに危険度が少ないとも判断した。」
父のホルヘ・メッシーがこう語れば、息子のレオもこう回想する。
「負傷に倒れてからしばらくの間、誰も自分の意見を聞いてくれなかった。担当医はもちろん、仲間や監督、そして父からも相手にされなかった。もうその試合のことは忘れろ、そればっかり。でも、エスパニョール相手の決勝戦にはどうしても出たかったし、必死になってみんなを説得したんだ。そしてプジョーのマスクのアイデアが出てきたとき、これでやっと望みがかなえられるとホッとした。」

カタルーニャ・カップ決勝戦。マスクを付けた異様な姿のレオ・メッシーが、スタートメンバー11人の中に見られた。審判の笛が鳴る。5分とたたないうちに、メッシーは何回もマスクの位置を変えようとしている。ピッタリとこないのだ。マスクが気になって仕方がない。まるで試合どころではないかのようだ。そして突然、彼はベンチに走り込んできた。
「何にも見えないよ、本当に何も見えないんだ。こんなの付けてプレーなんかできるわけない!」
そう叫ぶと同時に、マスクを外してベンチに座る監督に向かって投げつけた。そして再びグラウンドに戻っていく右頬骨折レオ・メッシー。ベンチにいた監督、そして観客席にいた父親、この2人がパニック状態となってしまったのは容易に想像できる。

「マスクを受け取った瞬間、彼を捕まえてベンチに下げようとしたが間に合わなかった。メッシーは凄い勢いでグラウンドに戻っていってしまった。いかに大事な試合とはいえ、頬骨が骨折している選手を、15歳のそんな状態の選手をプレーさせているなんて、自分は何て無茶苦茶な監督かと思った。何としても彼をベンチに下げようとしたが、彼は言うことを聞かない。自分の体が凍り付くような感じだった。」
監督がこういう思いであったのだから、当然ながら父親の方もあわてている。
「マスクを投げてグラウンドに戻っていった瞬間、もう腰が抜けるかと思った。すぐにでもベンチに走り寄って、そんなことを許した監督の襟首をつかんで怒鳴ってやろうかとも思ったし、グラウンドに入り込んで息子を引きずり出してやろうかとも思った。」

冷静だったのはレオだけだったようだ。監督の叫び声を、観客席にいる父親の仕草を、いまだに覚えていると語るレオ・メッシー。
「最初にパスがまわってきた時初めて、ほとんどボールが見えないことに気が付いた。考えてみれば、一度足りとしてマスクをして練習したことがなかったんだ。大きさやはめ具合を試したことはあっても、練習中には一度も付けてやったことがなかった。最初のパスを受けた後に、これじゃあダメだと思いマスクを外してそれを監督の手元に投げてしまった。彼がすぐに反応できないように急いでグラウンドに戻っていったが、自分の背中に向かって大声で怒鳴っているのはわかっていた。父親がいる方を見たら、立ち上がって両手をあげて何か叫んでいるようだった。みんな自分に怒っているのはわかっていたが、この試合はどうしてもプレーしたかったんだ。」

それからしばらくして、レオ・メッシーは2ゴールを決めてしまう。いずれもゴラッソだった。そしてジェラール・ピケが3点目を決めて前半が終了し、レオの仕事も終了することになった。後半にはベンチからこの試合を観戦している。彼にも納得できる選手交代だった。これ以上、多くの人に心配をかける必要はないし、何よりも、試合が勝利することはもう間違いない。彼の思い通り、バルサカデッテチームはカタルーニャ・カップ決勝戦に勝利し、この世代が勝ち取った多くのタイトルの一つとして記録されることになる。

この世代とは、87年世代を言う。バルサインフェリオールカテゴリーの歴史においても、特筆されることになるであろう87年世代。この世代の選手によって構成されたこの“黄金のカデッテチーム”は、まさに無敵だったと言っていい。トニー・カルボ(現アリス・デ・サロニカ)、セスク・ファブレガス(現アーセナル)、ジェラール・ピケ(現マンチェスター)、ソンゴー・ジュニア(現ポーツマス)、マーク・バリエンテ(現バルサB)、ビクトル・バスケス(現バルサB),レオ・メッシー(現バルサ)、etc, etc, etc。

それでも、すべての選手が第一線で活躍することは不可能だ。例えばホセ・イノホッサ、彼もまたピケやバリエンテと共に大いに将来を期待されたデフェンサ選手だった。だが、何度も負傷に倒れるという不運に見舞われたこともあり、現在はカタルーニャ地方リーグに在籍するクラブでプレーしている。その彼の誇りとなっていることは、もちろん超エリート選手たちと一つの黄金の時代を築いた構成員の1人となれたことだ。そしてかつての同僚たちが出場する試合は必ずテレビ観戦していると言う。
「ヘタフェ相手の国王杯でのメッシーのゴールをテレビで見たけれども、自分にとってはそれほど驚くようなプレーではなかった。いつもああいうゴールを見せられてきたからね。当時はエストレーモというよりはメディアプンタとしてプレーしていた。ハーフラインあたりでボールをとると、相手ゴールに向かって1人抜き、2人抜き、3人抜き、最終的に自らゴールを決めるか、あるいは僕にでも決められるような簡単なシュートとなるラストパスを誰かに出す。それが自分の見てきたメッシーであり、今でもほとんど変わっていないと思う。彼や、ビクトル・バスケス、あるいはセスクやピケと一緒に自分がプレーできたことは一生の誇りとなると思う。」

「こちらカピタン」より


前半戦での各選手総括(下)
(08/02/09)

メッシー
シーズン残りの試合はもちろん、来シーズンからの中心人物とならなければならない貴重なソシオの財産。毎シーズンのことながら、負傷が彼の最大の敵であり、それを認識した上で、コーチングスタッフは彼の起用方法を考えるべきだろう。週2回の試合では必ず2試合目に消えてしまうことは、これまでに証明されているし、負傷するパーセンテージも増えることになるのは明らかだ。

「こちらカピタン」より


学習能力
(07/12/04)

  ーー前略ーー

同じように何年も前から見続けているレオ・メッシー。だが、彼の場合はイニエスタと異なる。メッシーの基本的なスタイルは、彼を初めて見た14、5歳の時とまったく変わっていない。

持って生まれたとんでもない才能と、それをさらに磨き続ける努力のたまものとでも言うのだろうか。メッシーは誰の影響も受けず、ひたすら己の道を走り続けてきたような選手だ。それだけでバロン・デ・オロ候補者選手にまでなったのだから、それはそれで凄いことだ。だが、欲を言うならば、かつて同僚だったジュリーから多くのものを学んで欲しかった。もし、フラン・ライカー監督がメッシー優先策をとらなければ、少なくともそれなりのことを学ぶことが可能となっただろう。右エストレーモとして必要なプレッシャー能力と守備能力、そして空いているスペースの活用能力を兼ね備えていたジュリーから、学ぶものは多くあったはずだ。だが、スタメンを約束されたことで、その学習は何か必要のないものとなってしまったかのようだ。バルサ右サイドの弱さを右ラテラルに入るサンブロッタやプジョーだけのせいにはできない。己の道を行くメッシーと守備能力に欠けるチャビが右サイドにいる限り、誰がラテラルを守ろうが、その選手に対する負担はとてつもなく大きいものとなっている。だが、それでもメッシーを責めることはできない。マイナス面よりプラス面が比較できないほど多い選手であり、何よりも相手デフェンサをゴチャゴチャにする能力を持ったバルサ唯一の選手だ。

それにしても、彼のPKの蹴り方はどこで学んだのだろうか。クーマンのそれとは違う感じがするし、どちらかというとかつてのサレンコとかメンディエッタの蹴り方に似ている気がする。ひょっとしたらこれもまた、誰の影響も受けず、彼の持って生まれた能力のおかげだけなのかも知れない。恐るべし、レオ・メッシー。
   ーー後略ーー

「こちらカピタン」より


左足利き右サイド選手
(07/10/13)

右足利き選手は右サイドで、左足利き選手は左サイドでプレーするというのが、フットボール界での一般的な常識。だが、この常識を覆すかのように、左足利き選手でありながら右サイドでプレーしていた選手がいた。ガスコインなどと一緒にプレーしていたクリス・ワドル、デカイわりにはとてつもなく魅力的なテクニックとスピードを持っていたエストレーモ選手で、たぶん個人的に見た初の常識破りの選手だと、あやふげながらそういう記憶がある。

あれから20年。常識破りの選手はクリス以前にもいたのだろうし、この20年間にも何人かいたかも知れない。そうだとしても、印象に残っている選手は具体的に思いつかないので、いたとしてもたいした選手ではなかったのかも知れない。となると、クリス以降の常識破り選手はメッシーが最初となる。少なくとも個人的には彼が最初だ。明らかに右利きながら左も同じように起用に使いこなせたラウドゥルップや、利き足がどちらだかわからないオーベルはこのさい話をスッキリとするために無視しよう。

メッシーがデビューしてから何試合か左で試してみたライカー監督だが、いつの間にかジュリーの交代役として右エストレーモで起用するようになる。左にはロナルディーニョという絶対の選手がいたから、状況が生んだたまものかも知れない。いずれにしても、カデッテカテゴリー、フベニルカテゴリー、そしてバルサBでもメッシーの右ポジションはほとんど見たことがない。試合の流れで必要に応じて右に移ることはあっても、最初から右に配置されたのを見た記憶はない。アルゼンチンユースでどのような起用のされ方をしたのか知らないが、クラブ単位では彼にとって初めてのことと言っていい。

左足利きだから、当然ながら左に流れ込むような動きをする。ベニテス監督がこの特徴を読み切ったかのように、彼のマークとして右足利きのラテラルを起用したのは記憶に新しい。ボールを左足ではらって左斜めに突っ込もうとするメッシーを、右足利きラテラル選手は何の問題もなく得意の右足で阻止している。

だが、それでもメッシーはメッシーだった。オラゲールの持つ学習能力と、オラゲールにはまったくないテクニックを駆使し、いつの間にかその壁を破ることに成功している。ある時はボールを後ろの選手に戻し、ある時は壁パスを利用し、ある時は不器用な右足の手助けを借り、そしてある時は左斜めに突っ込む、そういうバリエーションを獲得した。
  ーー後略ーー

「こちらカピタン」より