2008年
10月
2009年

カルラス・レシャック自叙伝(下)
(08/10/12)

“ドリームチーム”は実に運の強いチームだったと言われている。その強運を呼んだのがヨハンだったのかのか、あるいは私だったのか、それは人によって意見が分かれるところらしいが、まあ、それはどうでも良いことだ。とにかく“ドリームチーム”には幸運の女神がつきまとってくれた。そのことを、多くの人々は3シーズン連続最終試合逆転リーグ優勝という、信じられない現象のことだと理解しているかも知れない。だが、私が言う幸運というのは、もちろんそのことも含めてだが、人々の気が付かないチョットしたこまかいことを指している。例えば次のようなことがあった。

ウエンブリーで優勝を遂げたシーズン、我々はその決勝戦に進む過程で、カイセルラウテンというドイツのチームと対戦している。カンプノウで2−0というスコアで勝利し、2週間後に彼らの地元でセカンドラウンドを戦った。前もって予想していた以上にカイセルラウテンは強敵だった。我々から2ゴールを奪い、この勝ち抜き戦は引き分けという状況を迎えていた。私の隣に座るヨハンが話しかけてきた。
「チャーリー、どんな手を打てば最善だろうか?」
こういう時のコーチは毅然としていなければならない。キッパリとしたアイデアがあろうとなかろうと、何らかのサジェスチョンをしなければならない。それがコーチというものだ。
「セルナを入れてみるのはどうだろう。」
「セルナ?この場でデフェンサ選手を入れるのか?2−0で負けてるんだぜ!」
「うん、でもこの雰囲気だとヤツらは更に2点ぐらいぶちかましてきそうな気がするんだ。」
この嫌な雰囲気の試合展開を、少しの間だけでも落ち着かせること。そして延長戦に入ってからでも、気分を入れ替えて攻撃に出れば良いんじゃないか。ヨハンは最終的に私の意見を取り入れることになった。

デフェンサ選手を入れたにもかかわらず、彼らは3点目を入れてきた。状況がちっとも落ち着いたものにならなかったのだ。だが、誰もが知っているように、試合終了間際にバケロの奇跡的なゴールが決まり、我々が勝ち残ることに成功している。はっきり言ってセルナの投入は我々のミスだった。結果的に、我々の判断のミスと言って良いだろう。これが最善の方法と判断してとった手段が、時として誤りだったということは山のようにあるんだ。バケロの嘘のようなゴールがもし生まれていなければ、采配ミスによる敗北となるところだった。だが、幸いなことに、我々には幸運の女神が寄り添ってくれていた。我々のミスが表沙汰とならないように、彼女は力を貸してくれたんだ。

次に書くことは冗談だと思う人がいるかも知れない。
「またいつものチャーリーのジョークさ。」
そう思う人がいるかも知れない。だが、そうではなく、本当のことなんだ。

我々には優秀なセントロカンピスタが何人もそろっていた。ペップ、アモール、エウセビオ、チキ、ナダール、バケロ、エトセトラ、エトセトラ。すべての選手が好調を維持しており、負傷もしていない状況で、とある試合を迎えていた。その試合の3日前、ヨハンが私に問いかける。
「チャーリーだったら誰をスタメンに選ぶ?」
「試合までにまだ3日もあるから、結論はださなくていいんじゃないか?」
試合当日までに何が起きるかわからない。このうちの誰かが負傷するかも知れないし、病に倒れるかも知れない。もっと試合が近づいてから誰にするか決めればいいんじゃないか、それが私の考えだった。そして翌日もヨハンは同じ質問をしてきた。
「まだ2日あるよ。」
私はこう答えた。
そして試合前日。幸運なことというか不幸なことというか、誰一人として負傷していなかったし病にも倒れていなかった。しかもみな好調を維持して練習に励んでいた。
「さあ、どうしよう。」
と、ヨハン。
「それじゃあ、このコインで決めようよ。」
と、私。
「エェ!なんだって!コインで決めろってか!」

正直言って、これほど実力が接近していて好調を保っている選手の中から誰を選べばベストかということなんか、神様にしかわかないことだと思っていた。誰をスタメンに出しても、それなりにうまくやっていくことだけはわかっていた。それなら、いっそのことコインの裏表で決めちまおう、それが私の提案であり、最終的にヨハンはそれを受け入れることになった。それも、この試合が最後というわけではなかった。コインでスタメンを決めたことはこれから何回も発生している。そう、今では伝説となっている“ドリームチーム”のスタメンをコインで決めることもあったんだ。伝説の監督ヨハン・クライフとその下で働くカルラス・レシャックに指揮された伝説の“ドリームチーム”。時として、物事は単純な方法でうまく機能していくものなのさ。


カルラス・レシャック自叙伝(中)
(08/10/11)

ヨハン・クライフという、バルセロニスタだけではなく世界中のフットボールファンにとって、すでに“伝説”となっているような人物を監督に迎えるということは、思いもかけない肯定的な効果を生むことがある。それは、単純に言ってしまえば、やはり“伝説”の人物だからだ。

彼が監督に就任してからしばらくたったある日、ヨハンはラグビーボールをいくつも抱えて練習場に姿をあらわした。この楕円形をしたボールで練習しようというのだ。あのヘンテコなボールでロンドをおこない、10m程度のドリブル練習をおこない、最後にはあのボールでミニゲームまでやってしまった。もちろん練習後の記者会見では、そのラグビーボールに関しての質問が飛んだ。
「ミスター、すいません、野暮な質問なんですが、今日は何でラグビーボールなんかを使用して練習したんでしょうか?」
その質問に平然とした表情で応えるヨハン。
「あなたのようなインテリのジャーナリストから、そんな単純な質問を受けるとは意外だ。でも良いだろう、説明してあげよう。いいかな、ああいうタイプのボールは、イレギュラーバンドばかりするのは当然のことだ。普段使用しているボールとは違い、どの方向へと跳ね返ってくるかわからない。そこで必要となるのは集中力だ。絶え間ない集中力がなければとてもあのタイプのボールには付き合うことはできない。つまり、集中力の養成が目的なのだよ。わかっただろうか?」
記者会見場内にオゥゥゥゥ!!!という歓声が沸き上がる。
「はぁ〜、なるほど。そういうことでしたか!」

この説明で感心するジャーナリストがあらわれるところが、“伝説”の人物たる由縁だ。もし私が同じことをして同じように記者会見で答えたとしたら、2週間ぐらいにわたって笑いのタネとなっていただろう。
「まったく、チャーリーは何考えてるんだか・・・」
そうなるに決まっている。“凡人”の口から出てくる言葉と“伝説”の人物からのそれでは、まったくもって説得力が違うんだな。

簡単に言ってしまえば信用度の問題だ。ヨハン・クライフという、かつての歴史的な名選手が語ることやすることに間違いはないという思いを多くの人々が持っている。それはジャーナリストだけではなく、彼の指揮の下でプレーする選手たちにしても同じだ。ヨハンという監督に絶対の信用、信頼感を抱くことになる。そして、これはチームが機能していくのに非常に重要なことでもある。さらに、クラブ背広組やバルサソシオやプレスなどのバルサを取り巻く人々の間でも、同じような信頼感が生じてくる。これも非常に大事なことだ。なぜなら、スタートからうまくチームが機能しなくても、我々に時間の余裕が与えられることを意味するからだ。

フットボール界の常識に逆らうようなこと、それがヨハンの大好きなことだと言って良い。例えば、次のようなことがあった。

マラガ相手の試合、残り7分のところで我々は1点差で負けている状態だった。ヨハンはリネッカーを下げ、専門ポジションとしてはセントラルのアレサンコを投入した。負けている状態でデランテロを下げ、セントラルの選手を入れるのは非常識なことじゃないか?多くの人々は当然ながらそう考える。だが、彼のアイデアはこうだ。もう残り時間は少ない非常事態だから、相手選手から奪ったボールは自動的にすべて相手ゴール前への“投げ込みセンターリング”攻撃システムとすること。そのために、チーム内で一番背の高い選手、それがデランテロだろうとデフェンサであろうと関係なく、一番背の高い選手を相手ゴール前に置いてヘディングのゴールを狙うこと。こういうアイデアだった。そしてアレサンコが入ってから1分後、アモールがゴールを決めて同点としてしまった。正直言って、アレサンコ投入と関係があったかどうかは怪しいゴールだ。だが、人々はその非常識とも思われるデフェンサ選手の投入と関係があるように感じてしまう。これが、ヨハン・マジックというやつだ。

この“発明”から2週間後のエスパニョール戦。試合終了15分前になって、やはりマラガ戦と同じように我々は1点差で負けていた。ここでヨハン・マジックの登場だ。そう、再びアレサンコを投入した。もちろんデランテロセントロとしてだ。そして2分後、またまた同点に追いついてしまう。私とヨハンは2人で大笑い。こんな幸運てあるのだろうか?だが、こんな幸運が毎回続くほど世の中甘くない。アレサンコ投入が結果的にうまくいったのはこの2試合だけで、それ以降はまったく機能しなかった。

一般的には非常識と思われることでも、ヨハン・マジックにかかるとひたすら新鮮で、人々は冒険旅行に同伴しているような気分となるらしい。しかも結果的にも良好となると、まさに夢見るマジックの世界だ。実際のところ、アレサンコ効果は最初の2試合だけマジックと呼べるものになったものの、それ以外はコミック的なものとなってしまっている。だが、それを試みたのはヨハンだ。このアレサンコ起用法も“ドリームチーム”時代の伝説の一つとなってしまう。


カルラス・レシャック自叙伝(上)
(08/10/10)

試合が週に1回の場合は、必ずと言っていいほど午前と午後の2回の練習プログラムを組んでいること。対戦チームに関するビデオ研究を徹底的におこなっていること。それから得た相手チーム分析により、最も相応しいと思われる11人の選手を活用していること。選手交代の際にベンチに戻る選手とグランドに走る選手のポジションが異なるのが多いこと。フエラの試合では、試合当日午前中の散歩の習慣を復活させたこと。カンプノウのロッカールームから練習場のミニエスタディまで徒歩で移動すること。試合終了直前の劇的な勝ち方をすること、エトセトラ、エトセトラと、ペップバルサはここ数年のライカーバルサとは異なる顔を見せている。そしてこれらのほとんどの現象が、クライフバルサ時代に見られたものだということに気が付く。クライフ・レシャックコンビがかもし出す雰囲気はこんな感じだった。そしてもう一つ思い出したのは、今から半年ぐらい前にレシャックが出した自叙伝(Caeles Rexach "Ahora hablo yo")のこと。この中に“ドリームチーム”時代の項目があり、なかなか興味深い内容なので、ここでほんの一部だけ紹介してみようと思う。

去年の今ごろと同じような時期に、ヨハン・クライフからの電話を受けた。
「チャーリー、またヌニェスから連絡があったんだが、今回はどう思う?」
ヨハンは去年もバルサ会長ヌニェスから監督就任の要請を受けていた。彼からその相談があったとき、まだ時期が悪いからやめた方が良いだろうと言ってある。だが、今回は監督就任の話を受けるべきだと思った。今のバルサにはすでに失うものはまったくないし、それだからこそ今なら根本的な改革が可能だと思ったからだ。
「良いんじゃないかな。」
ヌニェス理事会が、ヨハンの要望をすべて受け入れる用意があることを我々は知っていた。したがって、ゼロからの出発が可能だと我々は判断した。それは同時に嫌な仕事が目の前に控えていることを意味していた。多くの選手を放出しなければならない。実に嫌な仕事だ。

事実、新しいチーム作りのために在籍していた選手を放出することは、これまで経験してきたことで最も辛い仕事となった。13人の選手の放出。アマリージャ、カルデレ、クロス、クリストバル、ヘラルド、リンデ、ロペス、マノロ、モラタージャ、ナジン、ペドラッサ、ビクトル、そしてミゲリ。だが、ヌニェス理事会の希望はこの13人だけではなく、アレサンコ、カラスコ、フリオ・アルベルトの3人も放出して欲しいというものだった。“エスペリアスの反乱”で主役となった彼らを、ヌニェスはどうしても追い出したい意向だった。特に首謀と言っても良いアレサンコは是が非でも追い出したいという雰囲気だった。だが、ヨハンと私は彼らの放出には反対した。新しいチーム作りのために、彼らが必要だと必死になって説得し、最終的にチーム残留となった。

それにしても、計算外となった選手たちにそのことを告げるのはとてつもなく気まずく、どこまでも心が痛む嫌な仕事だった。特にカンテラ出身の選手たちにその旨を告げるのは、何にも増して心が痛む作業だった。怒り出す何人かの選手たちもいたし、冷静に状況を受け止める選手たちもいた。どんな対応をしてこようと、心が痛むのに変わりはない。彼らが“失業者”とならないように、個人的に他のクラブでの受け入れ態勢まで聞いたりもした。幸運にも、すべての選手が移籍クラブを見つけることができたときには、何とホットしたことか。

この13人の選手に加え、ヌニェスと揉めていたシュステルがレアル・マドリへと移籍していった。つまり、合計14人の選手がクラブを去ることになった。もちろん同じような数の選手たちを獲得しなければならない。最終的に、10人の新加入選手とカンテラ組織から3人、合計13人の新しい顔ぶれがそろう。何とラディカルなシーズンだろうか。14人の選手が出て行って13人の新しい選手が加わってきての新しいチーム作り。まさにゼロからの出発。外部からやって来たのはバケロ、チキ、ロペス・ロカルテ、エウセビオ、サリーナス、ソレール、バルベルデ、ウンスエ、セルナ、アロイシオ、そしてカンテラからアモール、ミージャ、ロウラが上がってきた。

加入選手の中にバスク人が多いことから、この獲得選手リストはクレメンテが作成したのではないかという噂が立った。確かに、クレメンテはバルサの監督就任の最大候補の1人だったらしいし、ヌニェスとも仲が良かったようだ。実を言うと、我々がクラブにやって来た頃には、すでにバケロ、チキ、ロペス・レカルテの3人の入団が決まっていた。彼らの獲得をヌニェスに推薦したのはクレメンテかも知れないし、そうではないかも知れない。いずれにしても、当時どのクラブの監督も欲しがっていた選手たちであり、誰がヌニェスに推薦してもおかしくないからだ。何と言ってもこの3人はスペイン代表として活躍していた選手たちだ。だが、この3人の選手たちをのぞいて、他の選手たちはすべて我々のアイデアによるものだ。

コーチングスタッフが一新され、選手たちの半分以上はバルサ1年目となる選手たち。クラブが抱えていたややっこしい問題も多くの人々が忘れかけようとしていた時期だし、何から何までゼロからの出発というイメージだった。すべての関係者が意欲的だった。そして我々コーチングスタッフは、新しい選手たちと共に新しいフットボールを展開することを目指して、ワクワクする毎日だった。人々がワクワクするようなフットボールを目指して、我々もワクワクしていた。


ペップとメッシー
(08/10/09)

「彼とペップ・グアルディオラとの関係は非常にうまくいっている。ペップがしてくれたことをレオは決して忘れていないからさ。」
メッシーの父親ホルヘ・メッシー。

「彼は満足していると思う。非常に満足していると思う。不満など一切なく満足している状態だったら、どんなに良いプレーが見られても不思議じゃないさ。彼は世界最高のプレーヤーなんだから。」
バルサ監督ペップ・グアルディオラ。

「非常に満足しているさ。今の自分に、そしてなによりもチームの状況に満足している。」
ムンディアル2010の予選を戦うために、アルゼンチンに向かうレオ・メッシー。

独りよがりのプレーではなく、チームの一員として攻撃に走り、そして守備にも積極的に参加するメッシーのこれまで見られなかったプレースタイル。その変化の最大の原因はペップ監督にあると言われている。グラウンドの中だけではなく、ロッカールームの中でも、あるいは練習から解放された私生活の面でも、メッシーになにか大きな変化が生まれている。
「それもこれもペップのおかげさ。ペップとレオは非常に良い関係だ。」
再びそう語るホルヘ・メッシー。

だが、プレステージが始まる頃は、メッシーとクラブの関係は決して良好なものではなかったようだ。その理由はロナルディーニョの移籍が最大のものとなっていたと思われる。誰もが認めるように、ロナルディーニョがメッシーに与えた影響は限りないものだった。好影響、悪影響、どちらかと言えば悪影響が支配する関係だった。当時の副会長の1人であるマーク・イングラが、ホルヘ・メッシーと何回も会合をもち、その悪影響に関する対応を練っていたと言われている。彼の同僚たちも、プレステージに参加してきたメッシーの態度が、どこか普段と違っていたことを認めている。

スコットランド遠征に旅立ったペップバルサ。アルゼンチンのメディアからは“メッシーを開放し北京オリンピック準備中の代表に参加させろ!”というキャンペーンが連日のように伝わってきていた。そんな中、メッシーはある日、いつもの彼からは想像できないような怠慢な練習態度が見られたという。それを見たペップがレオに近寄っていく。
「どうしたんだレオ、やる気がないのか?自分のおかれている状況に満足していないのか?俺に言ってみろ、何が不満で何が必要なのか。俺の顔を見ながら正直に言ってみろ。もし、それができないようなら練習に出てくる必要はないし、今この場から去っていった方が良い。もし、自分に満足していないレオだったら、我々は君を必要としないのだよ。」
そして2人の話し合いは、この日の夜にも再びおこなわれた。

執拗なペップを前にして、メッシーはようやく心の中にあるものを正直にはき出した。
「北京に行きたい。」
「わかった、ラポルタ会長を説得してみよう。心配するな。」

アメリカ遠征に旅立つ前、ペップバルサはイタリアのフィオレンティーナと親善試合をおこなっている。結果的に、メッシーにとってこの試合がプレステージでの最後の試合となった。この試合が終了したあと、彼はアルゼンチン代表に合流するためにバルサを去っているからだ。もし、TASがバルサの主張を認め、メッシーをオリンピック代表に参加させる義務はないとした場合、彼はすぐに戻って来るというメッセージを残してクラブをあとにしている。

8月6日、そのTASがバルサ側の主張に合法性を認めると発表。ペップバルサがプレステージのキャンプを張っているニューヨークでは、朝の6時のことだった。メッシーのいる上海は午後となっており、ちょうどアルゼンチン代表の練習が終わったばかりの時間だった。
「我々の勝利だ。メッシーをすぐさま戻すことにしよう!」
その時、ペップはラポルタに、チキを含めた3人で話し合いをもつ場を要求している。そしてこの要求をラポルタにする前に、彼はすでに上海にいるメッシーと電話で話し合いを済ましていた。
「監督、どうにかならないだろうか?自分は上海に残りたいんだ。どうにかしれくれないだろうか。」
「心配するなレオ、俺がどうにか話をまとめてみるから。」

キンタ・アベニュー53にあるサント・レジス・ホテルのスイートルーム。ペップ、チキ、そしてラポルタによる会合が持たれた。ペップはラポルタだけではなく、チキをも納得させなければならなかった。メッシーの好きなようにさせてやって欲しい、それがバルサにとって将来役にたつことになるのだから。そうペップは説得し続ける。この会合が終わったときは、アメリカでの最後の練習試合が近づいているころであり、上海にいるメッシーはすでにベッドの中で深い眠りについている時間だった。試合が終了し、バルセロナに向かうために飛行場にいるペップはついにメッシーと話すことができた。
「お前はそこに残れ。そしてしっかりと楽しんでこい。」

「オリンピックに参加できたのはひとえにペップのおかげだということを、レオは決して忘れるような子じゃない。彼は心の底からペップに感謝しているのさ。それは、もちろん今でも同じだ。」
ホルヘ・メッシーがそう語り、そしてこの物語は終了している。

"Te quiero feliz"
LUIS MARTIN - Barcelona - 07/10/2008
El Pais


セルヒオ・ブスケ
(08/10/08)

リーグ戦開幕まで1週間となった8月24日、このコーナーでセルヒオ・ブスケに関して次のように触れている。

グラウンドの外のことは知らないが、グラウンド内ではタチの悪い選手だ。彼をマークしている選手が少しでも接触してくると、大声を上げておおげさに倒れるピスシーナの天才。相手選手のファールで一度痛い目に遭うと、三倍にしてそのお返しをしてしまう復讐魔でもある。壁パスのお返しパスが弱く、相手選手にボールをとられてカウンタアタックをされる元凶選手となることも多い。だが、それでも、優れたテクニックを持った選手であり、フットボールセンスの良さが伝わってくる選手でもある。そして何よりも実践的な選手だ。おとなしい選手を送り出すことが多いラ・マシア出身選手ながら、肉弾戦には欠かせない熱い血を持った20歳になったばかりのブスケ。今回はすぐにエリートチームに上がってこないとしても、そのうち常連選手となるナンバーワン候補だと思う。

かつてのモッタのように、選手同士が揉めた時の“力強い切り込み隊長”としての頼もしさを示す場面には、未だ遭遇してはいない。ブスケの息子だから、いずれそういう楽しい場面を見せてくれるだろう。カンテラ組織から彼のようなキャラクターを持った選手が登場してくるのは希なことであり、是非とも暴れ回って欲しい。それにしても予想外だったのは、これほど早く常連選手の1人となったことと、新人のわりには非常に冷静にプレーしていること。そしてもう一つ、それはピボッテというポジションでの起用法だ。てっきり、インテリオール選手として起用されるとばかり思っていた。

今から3年前にバルサに入団してきたブスケだが、最初のシーズンはフベニルBとフベニルAをかけもちでプレーしていた。だが、いずれのチームでもポジションはインテリオール。左側でプレーする時もあれば、右側でプレーすることもあったが、常にインテリオールの選手。そして2年目。フベニルA固定選手となってからも、やはり左右のインテリオール選手としてシーズンを通して起用されている。そして3年目となった昨シーズン、ペップバルサ入りした彼のポジションに変化が見始められる。シーズン開始当初は負傷していたため、彼がペップバルサに招集されるようになるのは11月のこと。そして11月14日にペップバルサデビューをすることになるが、ポジションはなんと9番だった。このデランテロというポジションは次の試合でも試され、ようやく彼の本来のポジションであるインテリオールに戻ったのは3試合目。そしてそれ以降、カード制裁を喰らっている試合(ジェフレンと共につまらないことで退場させられた翌週、この2人はバルサBの練習が終わった後、1週間にわたってフベニルAチーム練習の球拾い役を命じられている)をのぞいて、ほとんどスタメン出場する幸運に恵まれている彼だが、ポジションはいろいろと変化を見せる。ある時はメディアプンタ、ある時は再びデランテロ、そしてある時は左右どちらかのインテリオール選手。その彼がピボッテとしてプレーするようになるのは、シーズンが終了する間際のことだ。

そして今シーズン。
第1節ヌマンシア戦・・・不出場
第2節ラーシング戦・・・スタメン出場90分間プレー
第3節ヒホン戦・・・・・スタメン出場78分間プレー
第4節ベティス戦・・・・途中出場20分間プレー
第5節エスパニョール戦・スタメン出場65分間プレー
第6節 At.マドリ戦 ・・・スタメン出場90分間プレー

いまだにチャンピオンズの試合には出場していないものの、リーグ戦に限って言えば多くの試合でスタメン選手となっている。そして驚くのは、と勝手に1人で驚いているだけかも知れないが、ペップ監督はブスケをピボッテとして起用することが多く見られることだ。そしてそれが見事に機能している。してみると、ペップ監督は以前から彼のピボッテとしての才能を評価していたのかも知れない。クロッサスやバリエンテを計算外としたのはそのせいかも知れない。そこらへんのことは外野席に座っている者には前もってわからないことだから、単純に彼らの放出を批判することが、結果的に的を射ていないことになってしまう。何年間もフットボール界の中に住んでいる人間と、外野席から眺めている人間との違い。そして毎日の練習風景を観察している人物と、週1回の試合だけを見ている人たちの違い。この相違は天と地の差ぐらいあるかも。

スペインU21代表に選出されたブスケはまだ20歳。スペイン代表と名が付くチームへの初登場だ。そしてこれからが、彼の勝負時となる。彼の存在を知った相手チームが徹底的に厳しいマークを付けてきた時に、どのような対応を見せるか。チョンボが多い選手だけに、それが課題となるだろう。もっとも、そんなことは誰もが経験する“越えなければならないハードル”の一つだ。さて、年俸3万ユーロ・ブスケとバルサとの契約は2009年6月30日まで。つまり、今年の12月を過ぎれば彼の獲得に興味を持ったクラブは大手を振って彼と交渉できることになる。ノンビリ屋さんチキはゴルフばっかりしている場合ではないぞ。


救世主ペドロ・ロドリゲス
(08/10/04)

7つの島から構成される、スペイン最南端に位置するカナリア諸島。その一つの島サンタ・クルス・テネリフェというのは、そのカナリア諸島の中でも最大の面積を有するだけではなく、観光拠点としても重要な島だ。と、今日のコーナーはスペイン観光局風にスタート。大瀧詠一だったかハッピーエンドだったか、彼の(あるいは彼らの)歌うそのカナリア諸島にはいまだに行ったことがない。なんせ遠いのだよ。バルセロナから2千キロ以上離れているというから、日本で言えば北海道の真北から九州の真南に行くようなものだ。とても自転車では行けない。

このサンタ・クルス・テネリフェという島の中にサン・イシドロという、人口約1万4千人程度の街があるという。ここにあるフットボールチームの名はフットボール・デポルティーボ・ラキ・サン・イシドロ、通称ラキと呼ばれるクラブだ。1970年創立というからかなり新しいクラブであり、これまでの最高カテゴリーが2005ー06シーズン在籍した二部Bカテゴリーだという。そして今シーズンは三部リーグはおろか、地方リーグにまでと落ち込んでしまっている。二部Bカテゴリーに昇格した際に、大金をはたいてカナリア諸島が生んだ“クラック”選手を何人か獲得してしまったため、現在は借金で苦しんでいるともいう。いや、それどころか、クラブの延命自体が難しい状況となっているらしい。彼らが抱えるその経済的問題を解決し、彼らが生き延びる方法、それは一つしかない。このクラブのカンテラ組織で育ったペドロ・ロドリゲス救世主に、果たして後光がさすかどうか、それのみにかかっている。

我らが27番ペドロ・ロドリゲスは、ラキから2004年夏に移籍してきている。フベニルカテゴリーでゴレアドールとなった彼に、バルサスパイ団の1人が目を付けての入団だった。バルサでもフベニルカテゴリーでスタートし、毎シーズン確実に成長し続けてきた彼は今シーズンからペップバルサでもプレーするようになった。

いかにラキのクラブ首脳陣が彼を救世主と拝めたてようが、ブスケやサンチェスと同じような3万ユーロの年俸しかとっていない彼だから、クラブ借金返済の手助けをしようと財布の中身を見ても助けにはならない。いかに頑張って貯金通帳を眺めて見ても、とてもとても40万ユーロというクラブ借金の数字を越えるものは見つからない(と、勝手に想像)。だが、彼が救世主となる由縁は、ラキとバルサが結んだ契約書の中にある。

6000ユーロというほぼタダ同然の形でバルサに移籍してきたペドロながら、契約書の中にはいくつかのオプション条項があるらしい。まず、フィリアルに上がって10試合以上プレーした場合、2万4000ユーロのオプション料がラキの懐に入る。だが、これは大した金額ではない。ラキの経済状態を救うのは次のオプションだ。もし彼が(奇跡的に)バルサAチームで10試合以上(1試合45分以上の出場が条件)の公式試合に出場した場合、バルサはラキに30万ユーロの支払いをしなければならないというもの。オラゲールに同じような条件を付けてバルサに移籍させたグラマネの例を見るまでもなく、奇跡がおきるのを信じて一応はオプションを付けてみるもんだ。

そのペドロ選手。昨シーズンはムルシア戦とバジャドリ戦に出場しているが、両試合とも公式試合とはいえ、数分間のプレー時間だったためこれらは計算外。今シーズンは第二節ラーシング戦に90分間出場し、チャンピオンズ予備選ビスワとの試合でも64分間プレーしているから、オプション条件としては2試合出場したことになる。そして3試合目となることが大いに期待されたシャクター戦。だが、大方の予想を裏切ってベンチにも入れてもらえず、観客席に90分間。う〜ん、10試合出場達成というのは、かなり高いハードルだ。それを越えることを可能にしてくれるのは、やはり国王杯次第となるのだろう。もし順調に準決勝まで進めるとすれば、この大会だけで6試合の出場が可能となる。

ラキというクラブの延命はペドロ・ロドリゲスの試合出場回数にかかっており、同時に監督のペップの選手起用法にも関連してくる。毎週末のバルサの試合を今日は出場するだろうかどうだろうか、とテレビの前に座って待ち続けるサン・イシドロの人々。彼らにとってはバルサが勝利すること以上に、救世主ペドロがプレーするかどうかの方が大事に違いない。それでも、メッシーの怪我を期待しちゃあいけないよ。それだけはダメ。


フランス人選手
(08/10/03)

「自分にとって一緒にプレーしている仲間のことをよく知ることは大事なことなんだ。例えば、どこに住んでいてどのような家庭をもっているとかね。フランスにいた時代にはよくチームの仲間同士で集まってフィエスタなんかやっていたから、彼らのことをよく知ることができた。でもバルサでは今のところそうじゃない。彼らは単なるチームメイトであって友達とは呼べない。しかもグランドの中だけじゃなく、外にも友人と呼べる人がいない。自分の子供たちや女房はそれぞれ友人を作っているというのに、自分には友人がいない。僕サミシ〜イ!」

ママやパパが住む家を離れ、学校友達や近所の友達と別れ、独りぼっちで見知らぬ街バルセロナまでやって来て、ラ・マシアの寮で寂しさに耐えながら、毎晩毎晩マクラを濡らしている13歳や14歳の子供の発言ではない。首に縄を巻いてバルセロナに無理矢理連れてこられた人でもない。それどころか、クラブが何十億という移籍料を支払い、何億という年俸を稼ぎ、バルセロナの外れの街にある超豪華一軒家に住み、一丁前の家庭を持つ29歳のエリート中のエリートフットボール選手アビダルが、「不振の理由は?」とジャーナリストに聞かれて飛び出した言葉だ。それも大事なチャンピオンズの試合前日のことだ。ウゥゥゥ・・・去年の不振の原因は練習量の少なさだと言い訳したかと思えば、今年はこれだ。もしそれが不振の原因なら、そんなことは仲間内でどうにかせいっ!友達を作りたかったら自分でどうにかせいっ!閉鎖的な性格が原因なのか、愛嬌がないのが原因なのか、人当たりが悪いのが原因なのか、ケチな性格が原因なのか、友達づきあいが悪いのが原因なのか、そこらへんは自分で考えてどうにかせいっ!コーニョ!

いったいこんな発言を、やはり家族と離れて生活している知り合いの、例えば、フセイン一派に家族を皆殺しされてスペインに1ユーロ(当時はペセタだった)も持たず、パスポートもなしに1人密入国してきて、ランブラスで似顔絵描きやっているイラク人や、コカインマフィアに追いかけられて家族を捨ててスペインに逃げてきて生活しているコロンビア人や、家族に送金するためにバルセロナにやって来てバールで働いているフィリピン人たちは、果たしてどう思うのでありましょうか?と、比較するのもバカバカしい“住む世界の違い”は別として、なぁんだ、アビダルはフランス人じゃないかと気付いたのであります。

そう、よく考えてみればアビダルはフランス人。ああでもないこうでもないと、言い訳の名人として知られる典型的なフランス人の1人でありました。あのミランという街からバルセロナにやって来て「街の水がまずいからボンジュール」ということを不振の理由としたドゥガリーという選手や、「娘と会う機会が年に数回しかなくて精神的に弱っているからシルブプレ」と不振の原因を語ったクラック選手と同じ国籍を持つ方でした。それじゃあ、しょうがない。国民性を批判することは、第三者がすることじゃあない。子供たちが作った友達をわけてもらうか、それが無理だったらせいぜい寂しがってください。いずれにしてもそんな言い訳は大人には通用しません。

そして、典型的フランス人風国民的発言があった翌日、我らバルサはシャクター相手のチャンピオンズグループ戦。娘が住むロンドンから更に遠いところに来てしまったアンリに活躍を望むのは無理なことであり、グラウンドに友達のいないアビダルはベンチで友達作り。決して褒められた試合内容ではなかったものの、5分おきに負傷を装って倒れまくり時間稼ぎをするフェア精神の欠片もないチームに対し、最後の最後に伝家の宝刀メッシー剣が電光の裁きを見せて逆転勝利。エスパニョール戦に続いてとても劇的なジエンド。ここのところ出ずっぱりだったメッシーのベンチスタート、誰にも予想できないスタメン11人選手、選手交代劇の成功、11人ではなく14人で戦うものであること、そして最後まで勝利を信じ続けて戦う選手たち、ここ2年間のライカーバルサではあまり見られなかった風景が新鮮にうつります。


ナンダカンダ
(08/10/01)

発煙筒事件をめぐって、アイツが悪い、コイツが悪い、いや、そうじゃなくてアッチのヤツが悪いと、何やらガキ同士の喧嘩みたいなことになっている。だが、この事件に関して言えば、複雑な要素は何もなく非常に単純なものだと思う。つまり、発煙筒を投げたボイショス・ノイスが最も悪いヤツであり、発煙筒を持ち込むことを“許して”しまったグラウンド警備の連中も、大いに反省すべき点があるということだろう。同時にそのグランド警備員を雇っているエスパニョールというクラブにも責任があるのはもちろんだ。これほどはっきりしていることはないのに、アアダコアダと話がややっこしくなっている。それでは日本語ではどのように紹介されているのかを知りたくて、いくつかのビジネスウエッブページを検索。4、5個ほど見つかったが、ほとんど同じような内容。その中で突っ込みどころの多いGol.comの記事を魚にしてからかってやろう。

27日に行われたエスパニョール対バルセロナの“カタラン・ダービー”で、
と始まるこの記事。この“カタラン・ダービー”という言い方からして、スペイン中央紙を資料にしていることがすぐわかる。カタルーニャではエスパニョール・バルサの対戦のことをバルセロナ・ダービーと呼んでいるのに対し、マルカやアスではこの“カタラン・ダービー”という言い方をよく見る。

バルサのサポータークラブ『ボイショス・ノイス』は、数年前からラポルタ会長の指揮の下、カンプノウへの入場が禁止されていた。しかし、身元の割れていないアウェーゲームには現れ続けている。ただし、アウェー側のチケットは対戦相手側が管理しているため、バルサがまったく無関係とは言い切れないだろう。
サポータークラブとはなんぞや!ペーニャ・ボイショス・ノイスというのは存在するが、サポータークラブというものは聞いたことがない。まあ、それは良いとして、このモンジュイクでの試合に関して言えば、バルサはここ何年間もバルセロニスタ用のチケットを用意していない。それはいつだったか、知人が来たときにクラブ側に問い合わせたことがあるから間違いない。したがって、ボイショス・ノイスにしても他のバルセロニスタにしても、この試合に観戦しに来ていた連中は、スタジアム窓口とか街中にあるATMとか、あるいはネットを通じて入場券を購入していることになる。つまりクラブが組織した人々ではないのだ。したがってラポルタが次のように語るのはまったくもって正しい。
「この件に関して、バルセロナにはまったく責任がない。6年間、我々のスタジアムでこのような事件が起こらないよう対処してきた。我々はまったくチケットを買っていない。(自分が座っていた)貴賓席にいた人間の中には、私がこの事件を起こした張本人とまで言う者がいた。しかし、唯一の責任はエスパニョールの警備にある。」
ラポルタ会長がおこなってきた業績の中で、多くのソシオが感謝していることの最大のものは、このボイショス・ノイス追放というものだ。もっとも、“命を狙われた’とか、“家族がつけ狙われていた”という怪しげな噂が本当かどうかは別問題だ。

「あいつら(ボイショス・ノイス)は豚だ。人を殺すことだって起こりえる。スタンドで我々を挑発し、ピッチであの結果を招いた。」
そう語るエスパニョール会長サンチェス・リブレの言葉も正しい。発煙筒を投げる豚がいたら是非ペットとして飼いたいものだが、騒動の最大の原因は偏にボイショス・ノイスにある。このモノを投げる豚どもが最大にして唯一と言っていいオバカモノなのだ。発煙筒所持を見つけられなかったエスパニョールクラブ関係者にも問題があるとはいえ、最近の発煙筒はやたら小さくなっているので、余程のボディチェックをしないと見つからない。だが、警備員たちはそのボディチェックもマジにおこなっていないようだ。豚共が100年の刑とするなら、エスパニョールクラブ関係者は10年程度の刑としよう。ところで、エスパニョールファンが投げた水ボトルがウンスエに当たり手当を受けていたが、そのことはなんの問題ともなっていない。

そして何やら、何人かのバルサ選手がゴールパフォーマンスをバルサファンに向かっておこなったことも、エスパニョール関係者から批判されているようだ。だが、バルサファンが集まっていたところにいたのは豚どもだけではなく、一般のごく普通のバルセロニスタという人間も大勢いたのだよ。レアル・マドリにかつていたファニートが、ベルナベウに住みつくウルトラ・スルの豚どもを前にして、ナチ式敬礼のゴールパフォーマンスをしたのとはわけが違う。

こんなつまらない話題はこれまでにして、さて、メディナ・カンタレホ審判。ペセテロと共に主役となった“子豚の頭”グランド投入事件。ジダンの頭突きを主審に“告げ口”したことで話題となったジダン頭突き退場事件。そして今回のボイショス・ノイス豚ども事件。もっともっとあるような気がするけれど、いずれにしてもこの人は主役となる運命にあるようだ。このダービー戦では、笛の内容も確かにひどい日だった。バルデスに対するキーパーチャージ(ちなみにアス紙によれば、プジョーがルイス・ガルシアを押したことにより彼がバルデスに触っただけで、本来ならPKだと!)を見逃し、我らがショーマン・ブスケの華麗なるピスシーナに欺された感のあるイエローカードも怪しいものだし、バルサに与えられたPKも更に怪しげなものだった。してみると、唯一合法的ゴールはアンリのものだけとなるわけで、したがって“普通”の審判だったら0−1でバルサの勝利となる試合だった。

バルサにとって不幸なのは、この審判がカタルーニャ出身の人ではないから、リーグ戦ではお会いしてしまうこと、そして幸運なことはスペイン出身の審判だからチャンピオンズではお会いする機会がないことだろう。

でも、正直なところ、こういうスキャンダラスな審判は決して嫌いじゃない。バルサをとことんまでいじめてくれたディアス・ベガ、タルヘッタの王様ロペス・ニエット、トンマなハポン・セビージャ、バルサゴールは認めませんロスサントス・オマール、いやいや、皆さんお元気でしょうか?