2008年
8月
2009年

シーズンガイドブック
(08/08/31)

8月の中旬から末にかかる時期ともなると、各紙が競ってシーズンガイドブックを売りだす。一般紙のそれは、新聞の間に挟まってくる薄いものがほとんどであり、やはりこの手のものはスポーツ新聞社が発行するものが優れている。マルカ、アス、エスポーツ、エル・ムンド・デポルティーボが発行するガイドブックがその代表的なものとなるが、何と言っても群を抜いて優れているのはマルカ発行のものだ。

選手移籍市場は8月の終わりを持って締め切られるから、このガイドブックをしても各チームの完全な形でのチームメンバーを知ることはできない。それでも大量の情報が最も多く詰められているのは決まってマルカのものとなる。リーガBBVA(とは誰も呼ばないスペイン一部リーグ)だけではなく、リーガ・アデランテ(とはもちろん誰も呼ばないスペイン二部リーグ)各チームの選手構成は非常に良くできている。もっとも、メレンゲ以外のファンは“リーグ予想”とか“チーム紹介”などのコメントまで読む必要はない。全国紙とは言え、そこはそれ、レアル・マドリ色の強い新聞社だけに、毎シーズンのようにレアル・マドリが優勝するような雰囲気でコメントが掲載されている。

さて、昼寝の前に、ペラペラとページをめくり、果たしてバルサの元カンテラ選手たちはどこに散らばって仕事をしているのか、それを探し求めるのはなかなか楽しいひととき。

マラガ ポルテロのアルナウがまだ健在。プジョー世代のミゲランヘルクアドラードも在籍。
ヌマンシア カンテラとは呼べないものの、昨シーズンまでバルサBにいたディマスが加入してきている。そしてかつての“キンタ・デ・ミニ”世代のモレーノがまだ働いていた。
レクレ ここには、やはり“キンタ・デ・ミニ”世代にして、キケ・コスタス前監督の長男であるキケ・アルバレスがいる。
セビージャ マジョルカからナバーロが加わってきた。
ヒホン 何年ぶりだか思い出せないほど久しぶりの一部リーグ昇格。ここにはかつてバルサBで地味にプレーしていたアンドレウがいるのをみっけ。
アルメリア 昨シーズン途中からバルサBにやって来たデフェンサのチコが初の一部チームでプレー。バモス、チコ!
At.マドリ 古株選手が2人。1人はルイス・ガルシア、もう1人はモッタ。だが、モッタは計算外選手となっているようなので、実際は1人だけとなる。
ベティス 彼もまたカンテラ育ちとは呼べないものの、好感の持てる選手だったダミアが生きていた。
デポル 御存知クリスティアンベルドゥがまだいる。ロドリもここにいる選手のはずだったが、1年目はアルメリアへ。2年目はエヒドへレンタルされており、今シーズンはマリティモというポルトガルのクラブにレンタルされてしもうた。
エスパニョール バルサB永遠の控えポルテロだったハビ・ルイス、そしてイバンルフェテ

見逃した選手もいるかも知れないが、だいたいこんな感じ。そして二部リーグチーム。

ジローナ キケ・アルバレスの弟のオスカー・アルバレスがまだプレーしていたとは知らなんだ。かつてバルサBで長い間プレーしていたマンガもいる。
レアル・ソシエダ ババンジーダの再来かと思われたモハが、なぜかこのチームにいる。いったいいつエスパニョールを辞めたのだろう。
セビージャ・アトレティコ ここは若手2人。昨シーズン、バルサを離れてベルギーのチームに1年間レンタルされていたコトが入団。そして御存知バリエンテ
サラゴサ どうやらセルヒオ・ガルシアがまだいるらしいが、移籍市場が閉めきられる前にいなくなるだろう。そしてセラーデスはすでにクラブを去っており、現在失業中のようだ。(このガイドブックが発売されたあとに、我らが1987年世代のソンゴー・ジュニアが入団してきている。)
カステジョン 期待のセントラルとしてバルサBに加入してきたモラ。だが、1年間だけで良くも悪くもないままカステジョンに出戻ったのはすでに3、4年前のことか。
セルタ バルサBからマドリBに移籍し、色々なところを渡り歩いたトラッショーラスを発見。
エルチェ 昨シーズンは二部リーグでプレーする違う名前のクラブにいたと思うが、とにかく今シーズンはエルチェでプレーするオルモ
ナスティック ここには懐かしい名前の選手が何人かいる。ついにアルナウを越えることができず、控えという時期が多かったポルテロのフェリッペ。そして同じ世代のミンゴトルトレロに加え、大ベテランと言って良いアルポンがいる。そして確かボージャン世代より1つ上だったと思うが、身長が伸びずにフベニルカテゴリーに上げてもらえずクラブを去っていったジョルディ・アルバという選手もいる。

そして最後に、ここ最近20年間のバルサとマドリのタイトル獲得数。
●リーグ優勝
バルサ 8回
マドリ 8回
●国王杯
バルサ 3回
マドリ 2回
●スーペルコパ
バルサ 6回
マドリ 7回
●チャンピオンズ制覇
バルサ 2回
マドリ 3回
●今はなきレコパ(カップ・ウイナーズ・カップ)
バルサ 2回
マドリ 0回

来年のガイドブックでは、リーグ優勝の回数がマドリを越え、チャンピオンズ制覇の回数がマドリと並ぶバルサとなるのでありました。


ボージャン18歳
(08/08/29)

ちょうど5年前の今ごろ、つまり2003年の夏、“こちらカピタン”にバルサカンテラ最新の宝石と題して、彗星のごとく?ボージャンの名が登場してきている。

「ゴールを奪うことがボクの仕事。もしそれがうまくいかないときはイライラするんだ、自分に対してね。でもゴールは自分だけの力で生まれるものじゃない。チームが一つになったときに生まれるものなんだ。」
これが今年12歳(注・実際には13歳。5年前の間違いはもう時効だ)になるバルサカンテラ最新の宝石ボージャン・ケルキック君のお言葉だ。

彼の名前を初めて聞いたのは2年前。ヤゴが話題になったときにヤゴからのパスをよくゴールしている選手がテレビに写されていた。それがボージャンという名前だった。

一番下のカテゴリーであるベンジャミンカテゴリーで226ゴール、アレビンBで69ゴール、アレビンAで92ゴール、そして昨シーズンはインファンティルBで36ゴール、バルサカンテラのすべての記録を塗りかえたボージャンはこれまで合計で423ゴールを決めている。そしてこれらの423ゴールの思いではすべて彼のノートに記録として残されているという。ゴールの感触を忘れないために、ゴールするごとにその夜にノートをつけるボージャン。

お母さんはプジョーの生まれ故郷であるレイダ県の人、そしてお父さんは元レッド・スターの選手だったというユーゴスラビア人。ボージャンのアイドルは二人、一人はパトリック・クルイベル、そしてもう一人はカルラス・プジョー。クルイベルはデランテロとしての見本となる選手であり、多くの批判がありながらもヨーロッパ最高のデランテロだと思っているという。そしてプジョーはカンテラの鏡であり、将来は彼のようにバルサエスクードを肌に染みこませてグランドを走り回る選手になりたいから、なそうな。パトリックのようなデランテロセンスを持ち、カルラスのようなハートを持った選手、これは凄いぞ。

この最新の宝石を見つけたのは誰か、そう、それはもちろん、今は亡きオリオル・トルトさんだ。彼が生前に見つけた最後の宝石だ。

そしてそれから4年たった去年のちょうど今ごろ、バルサ一部デビューを飾り“ボージャンデビュー”と題して、次のようにボージャン家にかんして触れてみた。

今からほぼ4年前、フベニルカテゴリ以下のチームが使用していた、いまは無き第四スタディアムでインファンティルAの試合を観戦に行ったとき、噂に聞いていたボージャンという坊やがプレーしているのを初めて見る幸運に恵まれた。インファンティルAチームを構成する選手たちはだいたい13歳程度の少年たち。したがって、みな小さい。当然ながら、このようなカテゴリーにあって特に目立つことになるのは、運動量の多い選手とかフィジカル的に恵まれた選手となる。だが、このチームはなかなか個性あふれる選手が何人かいることに気づく。

8番の背番号をつけた、背は高くないもののやたらと頑丈な感じがするフラン・メリダという選手や、運動量も多くなくフィジカル面でもごく普通ながら、やたらと目立つ動きをする11番ヤゴ・ファルケ、そして誰よりも小さいながら非常に運動量が多いだけではなく、ゴールをバシバシという感じで決めまくる9番ボージャン・ケルキック、この3人がとてつもなく印象に残るチームだった。

この年から2年ぐらい前にはメッシーという少年が、そして1年前にはジョバニという少年がこのカテゴリーでプレーしている。たまに彼らのプレーする試合を観戦に行くと、とても人の良さそうな印象を受ける40歳前後の男性が、いつも同じ場所に座っていた。ある時には奥さんと思われる女性と一緒だったり、ある時は友人と思われる人々に囲まれて座っており、そしてある時は一人で試合観戦している。その熱心なカンテラファンだと思われた人が、ボージャンの父親だとわかったのはこの試合が終了したあと、すぐにボージャン少年がやって来て彼の隣に座り、次のカデッテAチームの試合を見始めた時だ。こういうシーンはボージャンがフベニルカテゴリーに上がってくるまで見られることになる。

父ボージャンは息子ボージャンに、時間が許す限りバルサインフェリオールカテゴリーの試合を観戦するように教育している。その教えを守っていたからこそ、どんなカテゴリーの試合を観戦に行っても必ず彼の姿が見られた。もちろん、父ボージャンの姿も同じように観客席に見られることになる。もっとも、彼の場合は息子の試合観戦という父親としての楽しみと、バルサカンテラ組織職員としての仕事観戦でもあっただろう。

それから時がたち、父ボージャンはミニエスタディへと観戦場所を変えていく。今年の初め頃から、彼はバルサBの試合を観戦する父ボージャンと変貌している。さらに今シーズンからは、彼の試合観戦場所はカンプノウへと移り行くことになるだろう。

昨シーズン、ミニエスタディ観客席で父ボージャンの姿を見ることはやはりなかったと記憶している。カンプノウは広いのですれ違うことは一度もなかったし、まして我ら貧困族が陣取るゴール裏3階席で見かけることはあり得ない。それでも、父ボージャンは奥さんと一緒にパルコ席あたりに陣取り、息子の成長を見守っていたのだろう。息子がライカーバルサの一員となってからはバルサTVの試合解説をすることもなくなったし、メディアの前にもほとんど出てこなくなった。だが、フットボール界に生きた先輩として、そして何よりも父親として、することはしているようだ。

原点を忘れないこと、初心を忘れないこと。ファンの目に触れる公開の場ではイヤホンを付けていることと、携帯を使っていることを彼の母親が禁止させたのはすでに有名(?)な話だが、父ボージャンの方は違う形で息子に“地に足をつけ”させている。2008年に入ってから、彼のもとに4つのスポンサーオファーが来ていたという。そのうちの1つは有名な食料品関連企業であり、もう一つは、やはり有名な自動車企業からのオファーだったらしい。だが、それらをすべて丁重にお断り申し上げた父ボージャン。エリートチームに到達したばかりの、それもまだ17歳の選手にスポンサーは不似合い。頭の中をいっぱいにするのは学業のこととフットボールのことだけでじゅうぶんであり、個人スポンサーをいただくのは大人になってからで良いだろう、というのが父ボージャンの発想だ。

若い選手がエリートチームにはい上がってきた時に常に言われる言葉がある。
「一部デビューをすることは比較的簡単なことだが、その状態を維持することこそが本当に難しいこと。」
エリートチームデビューを飾って2年目となる今シーズン。9番選手の獲得こそなかったものの、彼の前にはエトーというクラック選手が立ちはだかっている。昨シーズンと同じように、彼にとって難しいシーズンとなることは間違いない。だが、それでも、彼はそういう難しい状況を劇的なゴールで打ち砕いてきた選手だ。インファンティルカテゴリーで、カデッテで、フベニルで、そしてバルサBで、難しい試合を勝利に導いてきたのは常に彼の劇的なゴールだった。そのゴールシーンが脳裏に焼き付いているからかも知れないが、彼はそういう星の下に生まれてきた選手だと信じている。シーズンが終わってみれば何気なく15ゴール。予想ではなく確信。

2008年8月28日、ボージャンようやく18歳。
スエルテ、ボージャン!


消化試合+バルサ公式サイト
(08/08/28)

チャンピオンズ予備選をテレビ観戦。非常に退屈でアクビの出るような試合。それではと、テレビ画面を横目になんとなくバルサ公式サイトをのぞきに行き、ついでに日本語ページにはどんな内容のニュースが載っているのかと、それものぞいてみる。フム、フム、別に面白くも何ともないニュースがダラダラと紹介されているが、とある特別興味を引くものを発見。なんと、ルーチョバルサ(バルサ二部チーム)をバルサ・アスレティックという、英語読みの名称にしてしまっているではないか。まったく、フランコ時代じゃあるまいし、なんてこったい。

FC.Barcelona Atletic というのが、昨シーズンまでバルサBと呼ばれていたチームの正式名称であり、このサイトではルーチョバルサと呼ばせてもらっているチーム。アルファベット文字をカタカナにする場合、正確に書き表すにはどうしても無理が生じるから、普通の発音に近ければそれでOKだと思っている。それではAtletic を普通の発音でカタカナにするとどうなるか。アトゥレティ、アトレティ、アトゥレティク、アトレティク、少々譲ってアトゥレティック、アトレティックという、この6つのカタカナ表記となると思う。口語音で最も近いと思われるのは、アトゥレティとアトゥレティクの二つではないだろうか。どうでも良いことながら、個人的にはアトゥレティというのが音としては一番気に入っている。

退屈な前半がやっと終了。それにしてもアビダルはいけません。ピケもまったく冴えません。バルデスはここ最近のオットットォ〜バルデス。冴えている選手が一人も見つけられないということは、チームそのものが機能していないということ。まあ、消化試合にはよく見られる風景なので問題なし。

さて、それでは、なにゆえ公式サイトではアスレティックとなってしまったのか。それは単純に、翻訳者の勘違いが原因となっているとしか考えられない。Atletic のAt の後にh が入ったAthletic という英単語と勘違いしているとしか考えられない。ちなみにAtletic というのはカタラン語で、同じ意味のスペイン語を使っているのがAtletico Madrid であり、英語版を使っているのがAthletic Bilbao ということになる。もう一つちなみに、生まれた時からアトレティコ・マドリインチャだという友人は“アレティ”と己のクラブ名を発音している。そう、確かにあのクラブのインチャの発音を聞いているとこの音となることが多い。でも、子音と母音で構成されている単語末のcoまでとってしまって発音するというのは、それは愛称と呼んでいいだろう。

後半のピケのヘディング格好良し。倒れそうで倒れず、ボールをとられそうでとられないフレブをコンニャク男と銘々。ボージャン18歳になるまでゴールは決めない決意表明。それにしても観客席にはどこかの宗教団体でもいたのだろうか。さあ、ローマへ続く道へのスタートだ。

ビジネス翻訳サイトや公式でも何でもなく、好き勝手にやっているだけの個人サイトであれば、それこそルーチョバルサなどといういい加減な名称を付けて呼んでも許されるだろうが、公式サイトが自らのチーム名を間違えるのはみっともない。みっともないというか、恥ずかしい。たぶん間違いには当分気が付かないだろうから、シーズン通してこのような名前で呼び続けるのだろう。バルサ・アスレティック、さい先悪し。シェーンカムバック、ヤゴカムバック!


ラポルタ、地味に勝利
(08/08/26)

毎年この時期に開催されるソシオ審議会だが、カンプノウで試合がおこなわれる日に合わせて開催されるのがこれまで通常となっている。それはガンペル杯の日であったり、リーグ戦最初の試合の日であったりする。ただでさえ駆けつけることの少ない面倒ぐさがりソシオ代表者たちが、できるだけ多くこの審議会に集まるようにするためだ。試合さえあればソシオもカンプノウにやって来るから、その試合開始前の数時間を利用してソシオ審議会が開催されてきた。試合がある日でも500人も集まればいいところだが、今年のそれはカンプノウでの試合がないタダのつまらない日曜日。それじゃあ、300人程度かと思いきや、なんとピッタシ1000人という“ソシオ代表者”が駆けつけてきている。いい意味でも悪い意味でも、ラポルタ効果ということか。

17時少し前からテレビ中継が始まり、17時過ぎにソシオ審議会が開始。昨シーズンの収支決算がどうのこうの、今シーズンの予算がどうのこうのと、数字には興味のない人にはアクビがでまくる2時間を乗り切って、いよいよ19時頃に今日のハイライト番組“ラポルタの将来はいかに!”がやって来た。一か月半前の不信任案選挙で2万5千人近いソシオから“お前はいらん!”と通告され大敗北を喫した会長が、こんどは1000人近い(すでにこの時点では50人ほど帰宅していると発表されていた)ソシオ代表者に伺ってみようという時間だ。

ちなみに、テレビ解説を聞いていて、今年のバルサソシオ審議会に参加できる4,190人のソシオの内訳は次のようになっていることが判明。

●ソシオ番号1から935番までの、セナドールと呼ばれるソシオ歴が古い人々。
●ラポルタ理事会員15人
●経済委員会メンバー5人
●規律委員会メンバー5人
●現職理事会が好き勝手に選出した25人
●元クラブ会長5人
●一般ソシオの中から抽選によって選ばれた3,181人

まず、ラポルタ理事会員15人+経済委員会メンバー5人+規律委員会メンバー5人+現職理事会が好き勝手に選出した25人=50人、この人たちは投票する前からすでにラポルタ票。先日、ラポルタからご接待にあずかったセナドールの多数もラポルタ票と考えられるし、投票前から圧倒的な勝利に終わるのではないかと一人キニエラ。だが、このキニエラも外れた。

投票結果
●恥も外聞もなくラポルタ続けるべし派・・・526票
●頼むから今すぐどこかへ行ってくれ派・・・376票
●居残ろうが去ろうがどうでも良いべ派・・・・40票

もっと圧勝という形でラポルタ勝利というシナリオができているのかと思ったら、意外にも票数が接近しての辛勝という感じ。だが、いずれにしても勝利は勝利。16万人いるソシオのうち526人がラポルタ続行すべしとしたため会長席は安泰。これから2年間バルサファミリーが平穏無事に過ごすことができれば、ラポルタもまた人生最高の瞬間を2年間楽しめることができる。だが、もしペップ組員が蹴ったボールがことごとくゴール枠内にいかないことが3試合でも続いたら、再び“ラポルタと遊ぼう!”ゴッコが復活してくる。退屈な日々が続いたり、嫌なことが多く発生したときには、さあ、みんな気分をとりなおして“ラポルタと遊ぼう!”ゴッコだ。

と、バカなことを行っている間に、メッシーを残したペップ御一行はミニチャンピオンズの消化試合をするためにクラコビアへと飛んでいる。まったく問題ない試合。今シーズンこそ、メッシー1週間最長120分間プレー時間ルールを守るべし。

問題と言えば、我らがルーチョ監督からヤゴ問題にかんする初の発言がなされている。
「クラブとしてはヤゴという選手に非常に興味を示しているようだが、我々のチームには必要のない選手。まだ年齢的にもフィジカル的にもフベニルの選手だから、もし彼がクラブに残るのであればフベニルAでプレーすることになるだろう。」
そりゃないよ、ルーチョ監督。もう言葉もありません・・・。


ブスケとV.サンチェス
(08/08/24)

コルコレス、アブラン、ビクトル・サンチェス(以降V.サンチェス)、ブスケ、ビクトル・バスケス(以降V.バスケス)、ジェフレン、ペドロという、昨シーズンバルサBに在籍していた選手がスコットランド遠征に招集され、いったん帰国した後におこなわれたアメリカ遠征にも、コルコレスとアブランをのぞいた5人の選手が参加している。この中から果たして誰がペップバルサに残るのか、そういうキニエラがあったなら3人の名をあげていただろう。ブスケ、V.サンチェス、そしてペドロ。だが、どうやらそのキニエラは外れてしまったようだ。後者の2人はペップバルサに登録されるようだが、ブスケはとりあえずルーチョ組員となっている。これは少々意外なり。

ペドロのことは以前に触れているので今回は割愛。どこかにレンタルさせて、プレー時間を可能な限り多くするのが彼のためであり、そして将来のバルサのためであると今でも思っている。だが、最終的に残ることになるのであれば、ペップバルサで出番がないときは、できる限りルーチョバルサでプレーさせるべきだろう。エリートチームのベンチに置いておくだけで成長する選手など一人もいないだろうが、彼らとの練習で成長していくタイプの選手はいる。だがペドロは実践を通して大きくなっていく典型的な選手と見た。

●セルヒオ・ブスケ
もうかなり昔のことなので、いつのシーズンだったかは忘れた。カルロス・ブスケというポルテロがスビサレッタの控えとしてベンチに入っていた時代だから、1995年のアテネ決勝戦で大敗する少し前のことだろう。ある日、その控えポルテロブスケが右手に派手な包帯を巻いてメディアの前に出てきたことがある。彼曰く、家庭内でのアクシデントによる負傷だという。なんでも、アイロンをかけていたら、手からアイロンがすべって落としそうになったとか。アイロン台の下では彼の息子が遊んでいたので、これはいけないと思い、手から離れたアイロンをとっさに無意識のうちにつかんでしまったのだそうな。もちろん、こんな話は誰も信じない。彼は夜の帝王として知られていたし、しかも喧嘩っ早いことでも知られていたから、どうせどこかの飲み屋で喧嘩でもしたのだろう、という噂がそれらしく流れた。まあ、この“アイロン事件”はどうでも良いとして、なんでこんなことを思い出したかというと、彼の言うアイロン台の下で遊んでいた息子というのがセルヒオ・ブスケとなるからだ。あれから十数年たち、今では身長191センチ、大きくなったもんだわい。ちなみに彼はブスケという呼び名では親の七光りという感じがするので、セルヒオと呼んで欲しいと言っているらしいが、ここではセルヒオというありふれた名では呼ばない。彼はブスケだ。

グラウンドの外のことは知らないが、グラウンド内ではタチの悪い選手だ。彼をマークしている選手が少しでも接触してくると、大声を上げておおげさに倒れるピスシーナの天才。相手選手のファールで一度痛い目に遭うと、三倍にしてそのお返しをしてしまう復讐魔でもある。壁パスのお返しパスが弱く、相手選手にボールをとられてカウンタアタックをされる元凶選手となることも多い。だが、それでも、優れたテクニックを持った選手であり、フットボールセンスの良さが伝わってくる選手でもある。そして何よりも実践的な選手だ。おとなしい選手を送り出すことが多いラ・マシア出身選手ながら、肉弾戦には欠かせない熱い血を持った20歳になったばかりのブスケ。今回はすぐにエリートチームに上がってこないとしても、そのうち常連選手となるナンバーワン候補だと思う。

●V.サンチェス
バルサBでプレーした昨シーズン、彼はポルテロ以外のすべてのポジションをこなしている。

1ー右ラテラル・・・・・・マタローバルサB戦
2ーセントラル・・・・・・バルサBーレウス戦
3ー左ラテラル・・・・・・ラピテンカーバルサB戦
4ーピボッテ・・・・・・・サンタンドレウーバルサB戦
5ー右インテリオール・・・マスノウーバルサB戦
6ー左インテリオール・・・マンレウーバルサB戦 
7ー右エストレーモ・・・・バルサBーマンレッサ戦
8ー左エストレーモ・・・・ブラナスーバルサB戦
9ーデランテロセントロ・・バラゲルーバルサB戦

簡単な例をだすと上のようになるが、一試合平均3回はポジションを変える選手なので、試合開始時にそのポジションを務めた試合もあるし、試合中にそのポジションに移った試合もある。いずれにしても、ポルテロ以外はすべてこなしてきた選手だ。彼の武器はこの各ポジションをこなす器用さと、どんな試合であれ120%の力を出し切って90分間戦うその姿勢にある。どことの試合だったか記憶にないが、バルサBに退場者が出て10人となった試合で、彼は普段の120%どころではなく、200%の走りっぷりを見せて、審判の笛が吹かれた瞬間に倒れたまま動かなかったことがある。顔は蒼白状態となっており、てっきり死んでしまったのかと思ったぐらいだった。ペップ監督お気に入りの選手であり、ここまで来れた選手なのだからそれなりの才能もあるのだろう。器用貧乏で終わる可能性はもちろんあるものの、できることなら彼の自然なポジションである右インテリオールでプレーするのが理想的。

ペドロ、V.サンチェスともエリートチーム背番号(1〜25)を付けることになるが、現在空いている背番号は12、17、19そして23。そして再びキニエラ。ペドロ19番、V.サンチェス23番、こうなることに思い切って5ユーロ。


ソシオ審議会に向けて(終わり)
(08/08/22)

一介の弁護士からスタートし、バルセロナ市長になるよりも難しいと言われるバルサ会長になったほどの人物だから、ラポルタは凡人ではないし、ましてバカでもない。いま辞任しようものなら、会長としてのこれまでの功績は将来過小評価されることになるだろうし、2010年以降の政治家変身構想にも破綻を来す可能性も出てくる。しかもクラブ規約上、辞任しなければならない理由はまったくない。そう、あの凡人8人と違って、彼には辞める理由も切腹する理由も見つからない。プレステージが始まり、再びメディアを賑わすのが選手たちや監督の話題となれば、会長のことなどは誰も気にしなくなることを経験上知っているラポルタだ。

そのプレステージが開始された。もうラポルタはメディアの前に登場してこない。これまで連日のように、何かにつけてはニコニコ顔をテレビ画面に登場させていたラポルタが姿を消してしまう。パンフレット紙は新加入選手の動向や、ペップ新監督についてのコメントで埋め尽くされ、ラポルタの名は消えてしまう。そしてメッシーのオリンピック出場問題で賑やかになるクラブ周辺。時間的に可能な限りメッシーを引き留めることに成功し、最終的にアルゼンチン代表に合流させるものの、理はバルサ側にあるとの結論まで勝ち取ってしまう。ラポルタの大勝利と言えるこの勝負と共に、ペップバルサのプレステージでの快調さが更にプラス材料となってくる。“延命を図ること。ひたすら延命を図れば、そのうち良いことあるさ。”というのが真実味を帯びてきた。

さて、ソシオ審議会。ここのタイトルとなっているソシオ審議会にやっとたどり着いたが、はっきり言って、この審議会の構成メンバーに関してはあまり知識がない。3桁台のソシオ番号を持つ古いソシオは、自動的に“ソシオ代表者”となると聞いたことがあるが、正確には何番のソシオ番号までがそうなるのか知らない。抽選で一般ソシオの中から2千人程度が“ソシオ代表者”として選出されるが、その数が正確に何人となるかまで知らない。元クラブ関係者も自動的に参加権を得るらしいが、いったいどのような元クラブ関係者が何人選出されるかとなると、まったく想像もつかない。知らないことが多々あるものの、毎年このソシオ審議会に招集される“ソシオ代表者”の数は3千人強であり、実際に参加してくる数は500人にも満たないことがよくあることは経験上知っている。ソシオ審議会に参加権を持つ“ソシオ代表者”が全員集合したとしても3千人強、だが、実際は500人前後の数しかやって来ない。そして“ソシオ代表者”の名前と住所を知っているのはクラブ側関係者だけとなっている。そう、これほど現職側にとって操作しやすい会合はない。

今回、新しい呼び名を知ることができた。ソシオ番号1000までの古いバルサソシオのことを“セナドール”と呼ぶらしい。正式名称なのか単なる愛称なのかは知らないが、かつてセナドールと呼ばれた古代ローマの元老院議員にちなんで名付けられたそうな。そしてラポルタは、その老いたセナドールたちをガンペル杯がおこなわれた8月16日試合前に招集し、ガンペル杯チケットプレゼント付き(ガンペル杯はソシオアボノでも入場券を買う必要のある唯一の試合)会合を持っている。その主旨は“経験豊かな大先輩ソシオの意見を聞こうと思い”ということだ。セナドールの会合が持たれるのは、クラブ史上初めてのことだとメディアは紹介しているので、その存在を知らなかったのは当然のこととなる。いずれにしても、この“セナドール”と呼ばれる人々は、次の日曜日に開催されるソシオ審議会に参加してくる“ソシオ代表者”であり、ガンペル杯のチケットを頂いたお礼をラポルタにすることになるのだろう。

まさか、規定数の不信任案支持署名など集まるわけがないだろうと思っていたら凄い数の署名が集まり、まさか不信任案賛成案が過半数を超えることはないだろうと思っていたら60%を越える人々が賛成したし、今回の“事件”は予想外のことがよく起きる。そして今の段階で予想できることはラポルタの勝利に終わるということ。不信任案賛成か否かと問う選挙がおこなわれた7月の最初の日曜日には、絶体絶命火の玉状態となっていたラポルタであったにもかかわらず、8月24日のソシオ審議会を迎える現在、これ以上はないという感じの平穏さがやって来ている。どれだけのソシオが集まるのか、それは誰にも予想できなものの、これまでの例に漏れない状況が訪れるとすると、500人程度の“ソシオ代表者”がも集まってくるのだろう。もしそうだとすれば、300票程度のゴマスリ票でラポルタ継続となる。そして、その可能性はドデカイ。まさに継続は力なり、バモス。


ソシオ審議会に向けて(まだ終わらず)
(08/08/21)

選挙日が決定された日からその選挙の日まで、これまでサボり続けてきた2年間の数倍はあるのではないかと思われるほど頻繁に、ラポルタ会長はメディアの前に登場している。それは、今まですっかり無縁となっていたペーニャ集会への参加であったり、新加入選手紹介の記者会見場登場であったり、いろいろなスタイルでメディアの前にそのニコニコ顔を登場させる。そして彼の機関誌であるエスポーツ紙を駆使してのキャンペーン。それはもし会長選挙にでもなれば、臨時政権には放出選手や加入選手に関する交渉権がないことがキャンペーンされることになる。だが、そのことに関しては、ラポルタ候補対バサット候補によって争われた前回の会長選挙の際に、臨時政権会長を務めたジョアン・トライテル氏がはっきりと否定し、臨時政権にあってもその交渉権利はあると発表されている。

選挙日の2日前、マジェスティックホテルというところで、とある集会が持たれた。いわゆる有名人とやらや、企業家や友人、そしてクラブ理事会員などラポルタを支持する人々が集まって最後のキャンペーンを展開。その席で、何とラポルタは“松田聖子(古いか?)”を演じるのだ。理事会員が集まっている方に顔を向けながら語り始めるラポルタ。
「こんな事態になって本当に申し訳なく思っている。」
と語りながら涙声となり、言葉に詰まってしまう“仕草’を見せるラポルタ。
「これはすべて自分の責任であり、これまで私に協力してきてくれたすべての人々に陳謝したいと思う。」
そして右手の親指と人差し指で両目をこする大根役者ラポルタ。多くのカメラマンからのフラッシュがバシッバシッ!
もう、たまりません。

7月6日日曜日、快晴というかクソ暑いバルセロナ。選挙会場と言えばミニエスタディと決まっているものの、今回はカンプノウが用意されている。午後一に顔を出してみれば、予想を遙かに超えるヒトひと人の山。投票する際にはソシオカードは必要なく、身分証明書のみが必要な書類となる。投票用紙は不信任案に賛成の人用の“Si”用紙、反対の人用の“No”用紙、そして意味不明の白紙(どちらでもない人用)があり、そのどれかを拾って投票箱に入れればそれで終わり。

投票結果。
投票数3万9389(投票率33.15%)、ラポルタ辞めてけろ2万3870票(60.60%)、続けてけろ1万4871票(37.75%)、どうでも良い白紙540票となり、三分の二ルールを持って不信任案はボツとなった。この投票結果を知ったラポルタは満面に笑みを浮かべ、次のように語っている。
「不満を持っている人々の警告を深刻に受け止めようと思う。だが同時に、投票しなかった8万人ものソシオが私を支持していることも確かなことではないだろうか。」
ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、まったくもって困った子ちゃんだ。

フェラン・ソリアーノやマーク・イングラを代表とする理事会員は、この投票結果を文字通り深刻に受け止めたようだ。武士の情け三分の二ルールのフィロソフィーを尊重した彼らは、ラポルタ個人に対し辞任を要求している。その要求が認められない限り、再び理事会員としては継続できない。そう要求するものの、騎士精神も武士精神も常人の持つ常識も持ち合わせないラポルタは辞任しない。それではと自ら辞任していく8人の常識人。それでもラポルタに悲壮感はない。8人辞めるなら、更に自分に近い8人の親戚を集めて理事会員にすれば良いだけの話だ。大喜びして憧れのクラブ理事会員となる人物はゴロゴロといることを知っている。今は状況を限りなく平静に収め、延命を図ること。ひたすら延命を図れば、そのうち良いことあるさ。

辞めないラポルタは1つの提案をする。ソシオ審議会において自らの進退をソシオ代表者にうかがうという提案だ。
ソシオ審議会というものは茶番劇にしか過ぎない。
そう10年前にメディアを前にして語ったラポルタが、その審議会で自らの進退を問う。もちろんソシオ審議会には会長進退にかんする決定権はない。ないが、ソシオが意見を発表することはできる。ラポルタはその意見次第で、会長を継続するか辞退するか決めようと言うのだ。もちろん、勝算がなければこんな提案はしない。

ああ、また長くなってしまった。でも次回で必ず終わり。


ソシオ審議会に向けて(一回では終わらず)
(08/08/20)

我らがまだ会長ジョアン・ラポルタのことに触れるのは気が進まないものの、今度の日曜日にはソシオ審議会が開かれるので、一度だけでも触れておかなければなるまい。このソシオ審議会において、我らがまだ会長は自らの進退をソシオ代表者にうかがい、もし彼らが“辞めるべし!”とするなら辞任、もしその反対なら継続という、何ともはやバカバカしいことをしようとしているからだ。

今年の5月、弁護士オリオル・ジラルという、これまた見た目からしていかにも怪しげな人物が、ラポルタ政権に対し不信任案を提出する用意があると、メディアの前に登場してきた。ソシオであれば誰でも会長選挙に立候補できる権利を持つが、現実的にはかなり限られた人物しか可能とはならない。なぜなら政治選挙と同じように、多額の費用が必要となるからだ。それと同じように、この不信任案提出もまたすべてのソシオに権利があるとはいうものの、それを実現化させるには結構な資金が必要となる。今から10年前、貧しい弁護士生活をしていたジョアン・ラポルタが、エレファン・ブラウという反ヌニェス組織を形成して、やはり不信任案を提出した際にも、現在のユーロになおすと約2万ユーロは必要だったという。今回、オリオル・ジラルが必要とした資金は5万ユーロ前後だというが、誰がこの資金をカバーしたのかはいまだに不明だ。

そんなことはまあ良いとして、この5月の末という時期に、約6000という最低限必要なソシの署名を集めるとことは大変なことだ。オリオル・ジラルの記者会見を見ていたとき、その心意気は良しとするものの、まず間違っても必要数の署名を集めることは不可能だろうと思った。それはそうだろう、会長選挙に打って出る際に、“公式候補”として認められるためのソシオ署名を集める時でさえ、カンプノウでの試合があることが絶対的な条件となるし、前回の不信任案提出の際にも、試合観戦にやって来た人々を利用してどうにかうにかソシオ署名を集めることに成功している。だが今回の場合、カンプノウでの試合は一試合もない。したがって、街中のどこかに設置したオフィスに、ソシオは署名するためだけにわざわざ駆けつけなければならない。これは誰がどう考えようが、不可能に近いことに思えた。

だが、それが集まってしまうんだから世の中わからないもんだ。9000人以上のソシオ署名が集まってしまった。さらに、この9000以上集まった署名のほとんどが“本物”であったことも驚きであり、怪しげな人物に見えたオリオル・ジラルは、非常にマジな署名の集め方をしていたことがわかる。資金のことはともかく、人間、見た目で判断してはならない。

7月の最初の日曜日に“人民裁判”がおこなわれることに決定。投票権を持つ12万人弱のソシオのうち、最低でも10%の人々の投票があり、しかも三分の二以上の人々が不信任案賛成を意思表示して初めて不信任案が可決されることになるルール。この投票日には当然ながら試合はない。多くの人々はすでに夏休みに入っている。というわけで、投票日としては決して理想的な日ではない。それでも、予想以上にソシオが駆けつけることになる。

ここで、過半数(50%以上)というルールではなく、三分の二(66.6%以上)という少々変則的なルールについて触れておこう。このルールは10年前の“エレファン・ブラウ事件”後に誕生したものだが、このルールを作成した目玉人物は、記憶に間違いがなければ、ミケル・ロカという政治家にしてバルサソシオでもあり、そしてフランコ死後に誕生したスペイン憲法作成者の一人だ。当時、この三分の二ルールを制作当事者たちが説明することはなかったが、何人かの法律家やメディアが集まっておこなわれた討論会で、次のような“推測”がされたことを記憶している。
4年に一度おこなわれる会長選挙でソシオに選出されたクラブ会長を、ソシオ有志によっていつでも提出できる不信任案というもので簡単に更迭することは、その名誉ある職そのものを傷つけることになるのではないか。したがって、名誉ある会長を簡単に更迭させないためにも、過半数ではなく三分の二以上としたのではないだろうか。もし過半数を超えながらも三分の二に達成しない場合、クラブ会長は規約上更迭されることはない。だが、それは異常な事態であることには変わりがなく、会長に残された名誉は自ら辞任することで達成されることになる。
名誉ある職を他人の手によってではなく、自ら去ることを可能とする三分の二ルール、まるで武士の情けでござると言わんばかりのお洒落な発想ではないか。

こんな話は1回で終わりにしようと思ったものの、長くなってしまったので明日。


俺はペドロ
(08/08/18)

ペドロ・ロドリゲス、2004−05シーズンにバルサフベニルAチームへと加入してきている。翌シーズンはバルサC,そしてその翌シーズンもバルサCチーム居残り組の1人となっている。この2006−07シーズン、バルサCに22歳のデランテロ選手であるペドロ・ガルシアという選手が加入してきた。したがって、ペドロという名の選手が2人同じチームに、それもデランテロという同じポジションでプレーするようになり、それではと、年下のペドロ・ロドリゲス君が“ペドリート”という縮小辞つきで呼ばれることになった。だが、22歳ペドロ選手は入団後半年してレンタル移籍させられてしまう。再びペドロ名は1人となり、ペドロ・ロドリゲスはかつてのようにペドロに戻ることになった。両親にとってはいくつになっても子供時代からの愛称であるペドリートではあったが、少なくともフットボール界ではペドロ・ロドリゲスとなった。

それから1年後の2008年1月12日、ムルシアを迎えてのカンプノウでの試合。エスケロが負傷していたこともあり、バルサBから急きょこのペドロが招集されることになった。そして88分、エトーと交代にペドロがカンプノウに登場。ここで何を勘違いしたか、選手交代を告げるスピーカーから、“ペドリート!!!!"という紹介アナウンスが流れてしまった。そしてこの日から、バルサBの選手のことなどには興味がないのか無知なのか、多くのメディアが彼のことを“ペドリート”と呼ぶようになってしまった。
「ペドリートではなくペドロと呼んで欲しい。」
8月の最初にこうメディアに要求し、やっとペドロはペドロに戻ることができた。

1987年7月28日テネリフェ生まれ。いわゆるメッシーやピケ、セスクと同じ1987年世代となるが、17歳になってからのバルサ入団なので、バルサインフェリオールカテゴリー時代に彼らと一緒にプレーしたことはない。しかもこれまで、エリートチームに上がって来たすべてのカンテラ育ち選手が、オリオル・トルト氏やビジャセカ氏の手によってバルサ入団してきたという経過を持つのに比べ、彼はラポルタ政権誕生時のカンテラ責任者ジョアン・コロメル氏によって発掘された最初の選手となる。

フベニルAチームからスタートし、翌年はバルサCチームに上がるものの、決してスポットライトを浴びてきた選手ではない。いや、それどころか、もし現在のようにバルサCカテゴリーというものがなかったら、2年目にしてすでにクラブを去ることを運命づけられていたかも知れない。2004−05シーズン、フベニルチームにはすでにセスクやピケなどはいないものの、まだ優れた選手が残っていたシーズンだ。特にペドロのポジションとなるデランテロには何人かの将来を期待された選手が残っていた。左エストレーモとしてソンゴー・ジュニア、右エストレーモにはトニー・カルボやホセ・クラウス、そしてプンタにはシト・リエラやV.バスケスなどがおり、新人ペドロにはほとんど出番がなかったシーズンのように記憶している。そしてバルサCに昇進した翌シーズンも、ほぼ同じような状況下でプレーしている。その彼が徐々にスポットライトが当てられるようになったのが、バルサC2年目のことだ。

バルサCチームのデランテロを務めていた多くの選手がバルサBに昇進したり、あるいはクラブを離れる運命となったものの、ペドロはバルサC居残り組となった。そしてクラブを去った選手の代わりに加入してきた選手たちのほとんどが、この1シーズンでクラブを離れることになったことからわかるように、クラブが画策した加入作戦は見事に失敗の巻きとなるシーズンだ。この2006−07シーズン、ペドロはほぼすべての試合にスタメン出場し、右エストレーモ選手としての自信を少しずつ勝ち取っていく。そしてその才能を更に開花させることに成功した最大の“犯人”は、昨シーズンバルサBの監督をしたペップ・グアルディオラだろう。バルサB絶対スタメン選手のひとりとして監督から大いなる信頼を得た彼は、まるで一皮剥けたような感じで成長していった。

運動量の多さ、90分間における100%の集中力、そして誰もが否定できない絶対的なプロ精神、それらをすべて認めた上で、だがしかし、個人的にはまだバルサエリートチームの選手ではない気がする。かと言って、ルーチョバルサでは容れ物が小さすぎる。したがって、1シーズンだけでも良いから、二部Aチーム、あるいは弱小一部チームで経験を積むのが理想的だ。レンタルすべし!第二のゴイコを目指すべし!


Daniel Alves
アルベス
(08/08/16)

移籍料2900万ユーロ+オプションボーナス600万ユーロ(チャンピオンズ参加権300万ユーロ、タイトル獲得300万ユーロ)=3500万ユーロ、これがダニエル・アルベス(1983年6月5日ブラジルのジュアゼイロ生まれ)獲得にかかった費用だ。クラブ史上、オーベル、サビオラ(何という不吉な例だ!)についで3番目の高額な移籍料となっている。もちろんデフェンサ選手としてのそれとしては、クラブ史上最高額であることはもちろんだ。これは高い!

そう、この3500万ユーロというのは、それもラテラル選手に対する移籍料としては目玉が飛び出るほど高い。だが、高いことは高いが、それでもそれが無駄金となるかどうかは別の話となる。彼の先輩(もちろんオーベルとサビオラ)のような活躍程度では、ほぼ無駄金という総括になるだろうが、もし彼のアイドルであるというカフーやロベルト・カルロスのように、数シーズンにわたっての大活躍を見せてくれれば、それは無駄金どころか良い買い物をしたことになる。したがって、数字を見た限り、これは高い!となるものの、これからの彼の活躍度を見なければ本当のところはわからない。アルベスの活躍によってリーグ優勝3回、チャンピオンズ2回でも制覇することになれば、それはそれで安い高級品買いとなることは間違いない。

これまでバルサに入団してきた何人かのブラジル出身選手と同じように、ダニエル・アルベスもまた貧しい家庭で育っている。そして過去のブラジル選手と同じように、フットボールのプロ選手となることを夢見て少年時代を過ごしている。初めて在籍したフットボールクラブは、地元のジュアゼイロというチーム。そして10代後半にはバイアというチームでプロデビューを飾っている。そのデビューからわずか1年半後、2002ー03シーズン中の冬のマーケットを利用して、アルベスはセビージャに移籍してきた。バイアに支払われた移籍料はわずか80万ドルという。現在ビルバオの監督をしているホアキン・カパロスが当時セビージャの監督であり、アルベスはいまだに彼を師の一人として尊敬してるという。彼のリーグデビューは2003年2月23日におこなわれたエスパニョール戦であり、それ以来、ほぼスタメンを勝ち取っている。

サンバのリズムとラップミュージックを好み、あの顔からは想像しにくいが読書も好む。まだ25歳の誕生日を迎えたばかりながら、すでに奥さんのディノラとの間に2人の子供をもうけている。2歳になるダニエル、そして8か月のビクトリア。多くのブラジル元バルサ選手がそうだったように、彼もまた地中海に面しているカステルデフェルスやガバの街に住むことを望んでいるという。

「セビージャも決して小さなクラブではないと感じていたけれど、スペインを離れたところでも、こんなに大勢のファンが出迎えに来る風景は経験できなかった。いや、ファンの数だけではなく、報道陣の多さにもビックリしている。一国の首相まで合宿所を訪ねてくるなんて、いったいどうなっているんだろう。スコットランドにやって来て、バルサというクラブの影響力の大きさを再確認している。」
スコットランド遠征に参加してきたアルベスがそう語る。プロ選手としての偉大な一歩を踏み出したアルベス。セビージャ時代には経験したことがないもの、バルサ名物の“負傷”という洗礼をすでにチャンピオンズ予備選で済ましている。わずか2週間程度の軽傷ながら、ここ何年かのチーム伝統を守ろうとしているかのようだ。バルサとの契約は2012年までの4年間。違約金は9000万ユーロと設定された。

スエルテ!アルベス!
ブエナ・スエルテ!


Alexsander Hleb
フレブ
(08/08/15)

ロシアの人かと思ったら、ベラルーシ共和国の人だという。それではベラルーシ共和国とはどこ、と調べてみたら次のように説明されていた。
“ベラルーシ共和国、通称ベラルーシと呼ばれるこの国は東ヨーロッパに位置し、ロシア、ウクライナ、ポーランド、リトアニア、ラトビアと国境を接し、首都はミンスクに定められている。旧ソビエト連邦から独立し、国際連合にはソ連時代からソ連とは別枠で加盟していた。”
アレクサンデル・フレブ、1981年5月1日ベラルーシ共和国の首都ミンスクで誕生している。もちろんバルサにとって、その長い歴史においても初めてのベラルーシ共和国出身選手となる。

2008年7月16日、フレブにとっては非常に長い1日となった。バルセロナ・プラット空港に早朝到着した彼は、クラブの車でカンプノウに向かう。午前中を通してのメディカルチェックを済ました後、遅い朝食というか早い昼食をとり、午後一番にはカンプノウ内にある会長室で契約書にサイン行事。夕方には入団記者会見場に姿をあらわし、ラ・マシア(カンプノウではなく、ラ・マシアでの入団選手プレゼンテーションを見たのは個人的にも初めてのことだ)でのプレゼンテーションをおこなったのは、すでに夜9時を過ぎている頃だった。珍しい国から来た選手は、なかなか珍しいことをする。そして印象的だったのは、いつもニコニコしていることだ。ちなみにプレステージでの練習風景でも、練習試合でゴールを外した後でも、やはりニコニコしていた。この人は笑顔が普通の顔なのかも知れない。

彼の経歴もなかなか興味深い。ベラルーシ共和国内では体操選手として知られるだけではなく、水泳選手としても有望だったようだが、最終的に彼の判断でフットボールの道を選んだという。それほど屈強な体でもないのに、当たりに強いブンデスリーガやプレミアで活躍できたのは、体操競技で培った下半身の強さとバランスの良さだという。なにか、ゴム人形みたいな変な選手だ。しかも若いときは非常にプレーボーイだったという。それほどいい男には見えないものの、ベラルーシ共和国ではあの手の顔がもてるらしい。だが、遊び50%、フットボール50%の人生だったのをフットボール100%に変えたのは、2003年に起きた遊び帰りの自動車事故で死にそうになってからだという。いろいろと突っ込みどころの多そうな選手ではある。

彼が18歳となった1999年夏、自国にあるバテ・ボリソフというクラブでプロデビューを飾っている。そして2000−01シーズン、ドイツの名門シュツットガルトが15万ユーロの移籍料を支払って獲得。最初のシーズンは出番があまりやって来なかったものの、入団翌シーズンからは、ほぼスタメン選手となり5年間プレー。その後はアーセナルに移籍し、3年間プレーして現在に至っている。

「多くのバルセロニスタにとっては驚きの選手となるだろう。インテリオールのポジションはもちろんのこと、エストレーモでも起用できるオールランドプレーヤーだ。ボールテクニックは、誰もが知っているように非常に高度なものがあるし、何よりも相手ゴールに向かう直線的なプレースタイルが気に入っている。我々のチームにとって重要な選手の一人となることは間違いないだろう。」
そう語るペップ監督の強い要望で入団してきた選手。まだ短いプレー時間しか見ていないものの、確かに“驚き”を与えてくれる選手ではある。デランテロというポジションであるにもかかわらず、シュートを打つのが苦手の選手のようだ。いや、シュートするのが苦手なのか、そもそもそういう目立ったことをするのが嫌いなのか、はたまたラストパス大好き人間なのか、今後じっくりと研究してみよう。

ルイス・ガルシアを外国人風にするとこんな顔になるという感じのフレブ選手の移籍料は1500万ユーロ(+200万ユーロのオプションボーナス)。バルサとの契約は2012年までの4年間。違約金は9000万ユーロと設定された。

スエルテ!フレブ!
ブエナ・スエルテ!


残りものには福がある
(08/08/13)

カタルーニャの二大スポーツ紙と言われているエスポーツ紙とエル・ムンド・デポルティーボ紙。ここ最近、バールや街中でそれらの新聞を持って歩いている人を見かけることが少なくなっているし、キオスコのオヤジも売れなくなったと嘆いている。インターネットの普及がその理由の一つとして考えられるが、他の一般紙は以前同様かそれ以上に売り上げが伸びていると言う。では、なにゆえこの両紙が落ち目状況を迎えているのか、その理由は簡単だ。一言で言ってしまえば、どちらも面白くないからだ。本当に面白くない。以前と比べれば、まったく持って薄っぺらな内容となってしまった。一方がラポルタ提灯記事で紙面を埋め尽くせば、もう一方はロナルディーニョ提灯記事を満載。どちらにも興味のないバルセロニスタは、1ユーロを支払ってまでパンフレット紙を買おうとは思わない。そのツケがやって来ている。だが、それはどうでも良い。つまらないものは読まなければ良いだけの話。

それでもしつっこくその両紙を毎日欠かさず読んでいる知人によれば、このオフシーズンに“9番獲得候補選手”として“獲得は時間の問題”と紙面を賑わした選手は10人はこえるという。ベンゼマ、ドログバ、ビージャ、アベバヨル、ズラタン、ベルバトフ、グイサ、フンテラー、フリオ・クルス、トレゼゲ、マリオ・ゴメス、そして何たることかピッポ・インザギ、エトセトラ、エトセトラ。記憶に間違いがなければ、この“時間の問題”だった選手たちは、まだ一人としてバルサのユニを着ていない。そしてバルサの9番のユニを着続けているのは、すでに1か月半前から両紙によってバルサを離れることが暗黙の了解事項の“ニュース”となっていたサムエル・エトーだ。

バルサまだ会長のラポルタにしても、スコットランドではゴルフ三昧だったチキにしても、そして我らが監督ペップにしても、エトーは計算外の選手であるとはっきり公言しており、当然ながら、新たな9番選手が加入してくるシナリオとなっていたのだろう。だが、電車やバスに乗るときには、まず下りる人を優先するのが決まりというもので、新たに乗る人を優先してしまうと困った状況になってしまう。今回の場合、エトーは下りてくれなかった。したがって、新たに来る人がいたのかどうかは別として、新たな人はやって来ていない。

どうも、エトーの買い手として手を上げる立候補者は皆無だったようだ。あのロナルディーニョでさえ、2100万ユーロで買いましょうという奇特な買い手が現れたのに、なにゆえゴレアドール・エトーに買い手が現れなかったのか、これは超不思議な現象な気がする。イタリアのクラブはともかく、イングランドのクラブにはユーロがゴッサゴッサとあるらしいが、クラブが要求する移籍料が非常識なものだったのか、エトーの要求する年俸がキチガイじみたものだったのか、あるいは2回の大怪我をした選手には興味を示さなかったのか、はたまた何か隠された理由があったのか、売り商品として店頭に出された彼は、何らかの理由で売れ残ってしまった。

1994−95シーズンだったか、当時のレアル・マドリ監督バルダーノもまた今のペップと同じように、プレステージの段階でアマビスカとサモラーノを計算外選手として通告している。アマビスカは7番目のセントロカンピスタとして、サモラーノは5番目のデランテロ(数字はどちらもいい加減!)として宣告されながら、彼ら2人はプレステージでこれまでになく素晴らしい活躍を見せてしまう。買い手が現れなかったのか、当人たちが出ることを拒否したのか、そこら辺りは記憶にないが、いずれにしても彼らはクラブに残ることになった。計算外通告した監督を見返してやれ、という意識があったのかどうか、この2人は最高のシーズンを過ごすことになる。サモラーノはピチッチ賞を獲得し、アマビスカは“プロ生活最高”として記録されるシーズンをおくり、レアル・マドリはめでたくリーグ優勝。

もし、このまま残ることになるのであれば、それはそれで良し。そしてエトー頑張るべし。ペップ監督を見返すべく頑張るべし。そして、何が何でもそのなめらかな口は閉ざすべし。バモス!


アルゼンチン代表親善試合
(08/08/12)

“2004年4月20日と21日にニューヨークのサザビーズにて、9個の卵を含む180点余りのファベルジェの作品が、オークションにかけられることになっていました。総額で100億円を超えるとの前評判が高かった取引の行方に注目が集まっていましたが、2月4日、サザビーズはオークションが中止となったことを発表しました。出品予定の全作品を、ロシアの新興財閥ビクトール・ベセリベルグが、一括購入することになったためです。”
ファベルジェの作品とは何ぞや、9個の卵とはいかなる物ぞ、それを知りたい人はここを読んでもらうとして、ここで触れるのは、ロシアの新興財閥ビクトール・ベセリベルグという人物のことだ。

このビクトール・ベセリベルグ氏、1990年代初期に発生したソビエト経済混乱状況の中で、民有化政策をうまく利用して大金持ちとなった一人だという。現在では59億ドルの表資産と、その倍はあると言われるブラックマネーを持つ、ロシア3番目の金持ちとなっている、まことにもってうらやましい悪いヤツだ。そしてこの人物が、アルゼンチン代表がおこなう5年間の親善試合の権利を買ってしまったのが今から2年前。2006年8月にロンドンでおこなわれたブラジル相手の親善試合を皮切りに、2011年6月におこなわれる最後の親善試合までトータル24試合。1試合につき75万ドル、トータル1800万ドルがAFAに支払われるが、ブラジル戦終了後に頭金としてすでに900万ドルが支払い済みだという。

年間平均にして5試合の親善試合。コパ・アメリカの予選・本戦、そしてムンディアルの予選・本戦がある上に、この親善試合の特徴は世界各地を訪ねてのものとなるため、AFA内でもこの契約に反対した人々がいたらしい。だがAFA会長フリオ・グロンドナの独断で契約が成立してしまった。ちなみに、この契約書内には細々と次のような了解項目まである。ビクトール・ベセリベルグが持つ決定権および権利として、親善試合対戦相手の決定、招集選手決定にかんする意見、選手や監督と同じホテルに泊まること、試合前のミーティングに自由に参加でき、ロッカールームだけではなく、試合中ベンチにも座ることができるというものだ。

いかにも成金オヤジにありそうな、目立ちたがり行為と言うか、ワガママ行為と言うか、気まぐれ行為というか、そんな行為の固まりオヤジに見えてくる。だが、国のどさくさ時期に紛れて、許されること許されないことすべてを駆使して超大金持ちとなった人物であるから、そんな単純なものではない。ビジネス、ビジネス、そしてビジネスなのだ。

彼の持つ多くの肩書きの中に、ロシア最大企業の一つと言っていいレノバ社(Renova Group of Companies)の会長というのがある。鉱山会社や石油会社、建設業、不動産業、ファイナンシャル会社などを有する総合グループの会長だ。ビクトール・ベセリベルグはアルゼンチン代表が訪ねまくる世界各地に同行しながら、自社企業キャンペーンを張り、“ご当地進出”を狙う。つまりアルゼンチン代表は、同時に彼のCM軍団と化してしまったのだ。イングランドに始まり、スペイン、トルコ、イタリア、フランス、メキシコ、アメリカ合衆国、オランダ、日本、オーストラリア、ポルトガル、韓国、アイルランド、スエーデン、アラビア首長国連邦、スコットランド、そしてもちろん中国。5年という契約期間中に、アルゼンチン代表選手と一緒に飛び回る国々。そう言えば、かつてフロレンティーノがレアル・マドリの会長であった頃、プレステージでの中国遠征を利用して、彼が会長を務める会社の“中国進出”を画策し、見事に成功を収めている。

メッシーをオリンピックに出場させる条件として、バルサはAFAに二つのことを要求し、二つとも了承させることに成功している。一つは負傷した場合の保険費用を持つこと、もう一つは2008−09シーズン中の“すべての”アルゼンチン代表親善試合にメッシーを招集しないということ。特に2番目の項目はバルサにとって画期的な収穫と言って良い・・・はずだった。

それでは2008−09シーズンにプログラムされているアルゼンチン代表の親善試合は、いったい何試合あるのだろうか。交渉中のフランス戦(来年2月)をのぞけば、今のところわずか2試合しか予定されていない。しかも1試合はオリンピック開催中の8月20日におこなわれるビオルシア戦であり、体が一つしかないメッシーは当然ながら参加できない。したがって11月に予定されているアラビア首長国連邦との親善試合が、今シーズン唯一のものとなっている。“すべての”親善試合がわずか1試合。洒落にもなりませぬ。恐るべしAFA会長フリオ・グロンドナ、お茶目なりチキ・ベギリスタイン。


Martin Caceres
カセレス
(08/08/10)

ここ2、3年で急激な上昇カーブを描き、そして気が付いてみればバルサにまでたどり着いたシンデレラボーイ選手。マルティン・カセレスがフットボール世界の一部リーグに登場してきたのは、今からわずか2年前の2006年6月のこと。彼の生まれ故郷であるウルグアイのデフェンソール・モンテビデオというクラブで一部デビューを飾っている。そして翌年の2007年にはビジャレアルに移籍し、そのままレクレにレンタルされて2007−08シーズンをこのクラブでプレーしている。

それにしてもビジャレアルはビジネスがお上手だ。カセレスを昨シーズン獲得した際、彼が在籍していたクラブに支払った移籍料はわずか100万ユーロだという。そしてそれから1年後の現在、商売上手ビジャレアルは1650万ユーロという移籍料でバルサに権利を譲っている。もっとも、この金額すべてがビジャレアル金庫に入るわけではないようだ。1シーズン彼をレンタル選手としてプレーさせたレクレに“教育料”として100万ユーロ、そしてカセレスの代理人とデフェンソール・モンテビデオに総額650万ユーロ支払われることになる。それでもビジャレアル金庫には900万ユーロの資金が納まることになる。ご破算で願いましては、1年間で800万ユーロの純益となった。人生一度でいいからこういうビジネスをしてみたいもんだ。

マルティン・カセレス、1987年4月7日、ウルグアイはモンテビデオで誕生している。偶然にも彼もまた、メッシーやピケと同じ1987年世代となる。バルサにとってウルグアイ選手を獲得することは、30年ぶりの出来事となるらしい。バジャドリでプレーしていたアルフレッド・アマリージャ(知らん!)というのがこれまでの最後のウルグアイ選手で、1976年から1978年までバルサでプレーした人物という。

マルティン・カセレスを一躍有名にしたのは、2007年にパラグアイで開催された南米U20の大会だという。この大会ではウルグアイ自体は良い結果を出せず、最終的にオリンピック参加権を得ることができなかった。だが、カセレス自身には良い大会だったようで、最優秀デフェンサ賞を獲得している。つまり、その活躍はバルサスカウトマンたちの目にはとまらなかったものの、ビジャレアルスカウトマンの注目するところになったということだろう。

「とてつもなく幸せに思っている。ヨーロッパでのプレーチャンスをくれたビジャレアルにも感謝しているし、そして何よりも自分を高く評価してくれたバルサには言葉もないほど感謝している。自分が目標とする選手はミリートとプジョー、その彼らと同じチームでプレーできるなんて夢のようだ。」
ケイタ、ピケに続き、新加入選手3番目の入団記者会見席上でそう語るマルティン・カセレス。急上昇カーブを短い時間で描いてきた彼には、すべてが夢のように感じられるのは当然のことだろう。彼の持ち味はガッツあふれるプレーと共に、デフェンサのポジションならどこでもこなせる器用さだという。つまりセントラルだけではなく、左右ラテラルも問題ないことになる。そして偶然にも、レクレでは元バルサ選手のジェラールやキケ・アルバレスと一緒にプレーしている。バルサというクラブの情報は彼らからすでに手に入れているようだ。

なぜかイタリアパスポートも所持しているから、外国人籍選手とはならない。そして個人的な経験から言えば、彼はカンプノウでの人気者選手となるような気がしている。バルサとの契約は2012年までの4年間。違約金は5000万ユーロと設定された。

スエルテ!カセレス!
ブエナ・スエルテ!


Gerard Pique
ピケ
(08/08/09)

ジェラール・ピケ、1987年2月2日バルセロナ生まれ。彼がこの世に誕生してきたその日からバルサソシオとして登録されており、2008年の番号は4万8212番となっている“ベテラン”ソシオだ。これもすべてアマドル・ベルナベウという祖父を持ったことに由来する。22年間続いたヌニェス政権内で重要な役割を演じたベルナベウ氏。その彼の手に引かれ、孫のピケがバルサの入団テストを受けにテスト場に姿をあらわしたのが1997年夏のこと。すでに身長も高かったし、テクニック的にも面白いものを持っていたこともあるし、しかもコネもピカピカ光っていたから当然ながら無事合格。バンガールがバルサのベンチに座ることになった1997−98シーズン、ジェラール・ピケは、アレビンBチームをスタートしてバルサカンテラ選手となった。

“黄金の1987年世代チーム”がスタートするのは翌年からだ。ジェラール・ピケに加え、トニー・カルボ(現アリス・サロニカ)、セスク・ファブレガス(現アーセナル)、ビクトル・バスケス(現バルサ)、マーク・バリエンテ(現セビージャ)などの1987年世代によって構成されたチームが、アレビンカテゴリ・インファンティルカテゴリーで可能な限りのタイトルを獲得していく。そしてカデッテカテゴリーに入るとレオ・メッシー(現バルサ)が加入し、“黄金のカデッテチーム”ができあがる。バルサカンテラ史においてもゴシック文字で記録されることになる、この1987年世代チーム。だが、フベニルカテゴリーに突入していくと共に、セスクがアーセナルに、そしてその後ピケはマンチェスターへとそれぞれ移籍していく。それから4年後、ピケは再びバルサに戻ってきた。移籍料は500万ユーロ、そしてオプションボーナスとして200万ユーロ。まあまあ手頃な値段と言えるだろう。

2008年7月3日、ジェラール・ピケのバルサ入団記者会見が開かれた。記者席の後方には、彼の弟のマーク、両親のジョアンとモンセ、そして祖父のベルナベウが座っている。家族の一人が“我が家”に帰ってきたのだ。
「バルサに戻るチャンスを与えてくれたすべての人々に感謝したいと思っている。17歳という若さで我が家を去ることになったのは、当時の自分に一つの大きな目標があったからだ。それはプロの選手として1日も早く独立すること、幸いにもそれが可能となり、そして今、子供の頃からの夢であったバルサでプレーすることも実現したことになる。まだ21歳の自分が言うのもなんだが、もしバルサで現役生活を終えることができれば、これ以上幸せなことはない。」
将来を大いに期待されたかつてのカンテラ選手が、心のクラブに戻ることが実現し、当人、家族、クラブ、バルセロニスタにとってすべてが丸く収まったイメージでメディアが持ち上げる。だが、現実はそれほど甘いものではないことは、バレンシアから出戻りしてきた元カンテラ選手ジェラール・ロペスが証明してくれている。

「バルサというクラブは歴史的に見て、クラブ首脳陣にしてもファンにしても、カンテラ出身選手に対して厳しいところがある。そういう意味で言えば、自分も毎試合毎試合厳しいチェックを受けることになると思う。でも、プレッシャーには負けない自信があるし、ひたすたチームが勝利するためにプレーするだけさ。」
そうなのです。彼が語るように、カンテラ選手に対する地元ファンの見方は、非常に厳しいものがある。しかも彼の場合は単なるカンテラ育ち選手ではなく、10代半ばにしてすでに他のクラブのオファーを受け、一度バルサを去っていった選手だ。その“事件”をいまだに忘れず、ピケ獲得に批判の意見を持つバルセロニスタも多い。さらに、彼の獲得を誰が望んだのかもはっきりしていない。ペップの希望ではないようだし、勝手に出て行った選手を買い戻すことなどしないと公言していたチキの要望でもないだろう。一時的にレンタルされていたサラゴサで活躍したわけでもないし、ましてマンチェスターで光り輝やいた存在となっていたわけでもない。

「彼の将来性を大いに期待している。」
こう語るラポルタの言葉が、ジェラール・ピケの現実を如実に表しているような気がする。そう、この選手には時間が必要だ。2年ぐらいかけて、徐々に徐々にスタメンを勝ち取っていけばよい。彼の持ち味は何と言っても長身をいかして高いボールに強いこと、そしてバルサカンテラ育ちならではのボール出しのセンスの良さ。だが、反面、器用にいくつかのポジションをこなすセンスはない。カデッテ、フベニル時代に右ラテラルやピボッテを務めたことがあるが、セントラルというポジションと比べるとそれほど効率良いプレーはしていないし、サラゴサ時代にもそれは見せてくれていない。いずれにしても、ボール出しのセンスを武器として、とりあえずはマルケスの控えとして出発することになるのだろう。もし、マルケスが負傷という不運に見舞われないシーズンをおくることができれば、ピケの出番が限られたものとなるのは仕方がない。あらゆる意味で彼には時間が必要だ。そしてラポルタではないが、個人的にもピケの将来は大いに期待できるものだと思う。

これまでのプレステージでの練習試合を見る限り、マルケスの控え選手として順調に調整ができているようだ。ペップ監督の彼に対する信頼感も試合ごとに増しているような気がする。バルサとの契約は2012年までの4年間。違約金は5000万ユーロと設定された。

スエルテ!ピケ!
ブエナ・スエルテ!


Seydou Keita
ケイタ
(08/08/08)

元セビージャ選手セイドウ・ケイタのバルサ入団記者会見の席で、我らが会長ジョアン・ラポルタはジャーナリストを前にして、胸を張りながら次のように語っている。
「セビージャとバルサの関係は非常に良好であり、今回のケイタ獲得交渉に関しても何の問題もなく、お互いが満足する形で終わりを見ることができた。」
ジャーナリストはもちろん、この記者会見の模様をテレビ中継で見ていた暇なバルセロニスタにとっても、何とまあ、開いた口がふさがらないビックリ発言だった。

このラポルタの発言がなにゆえビックリ発言であり、素っ頓狂なものだったか、それはこの記者会見がおこなわれた数日前に、セビージャ会長が次のように語っていたからだ。
「つい先日、セイドウ・ケイタ選手は私セビージャ会長宛にファックスを送ってきて、6月30日付けをもってクラブとの契約を解約することを表明してきている。つまり彼がセビージャに入団する際に結ばれた契約書に示された違約金を全額支払い、クラブとの関係と絶つことに決めたと言うことだ。」

ペップバルサがケイタ獲得に興味を抱いていることは、すでに5月の段階でメディアを賑わしていた。その話題に触れるたびに、セビージャ会長ホセ・マリア・デル・ニードは、バルサとの交渉はいっさい受け付けないと公言してきている。つまり、セビージャとバルサとの間に、ケイタ獲得に間する交渉など存在していない。そもそも違約金を全額支払うわけだから、クラブ間の交渉など必要ないのだ。かつてデポルからリバルドを獲得した時のように、そしてペセテロが首都に引っ越していった時のように、違約金全額を支払う移籍にクラブ間の交渉など必要ない。そして、もちろんケイタの移籍にしても同じことが言える。彼の違約金は1400万ユーロ、これが高いか安いかはまた別の問題となるが、それを支払ってしまえば移籍はクラブ間での交渉なしに完了してしまう。

トントントンマの天狗さんラポルタのことはどうでも良いとしよう。バルサにとって重要なのは、ペップ監督が必要とする選手を獲得できたことにある。しかも、ここ1、2年の“お嬢さん中盤”的発想を否定し、ガッツあふれる選手を中盤にぶちかますことが、ペップ監督のアイデアの一つなのだから、その意味で重要な選手の獲得と言える。

セイドウ・ケイタ、1980年1月16日バマコ(マリ)生まれの28歳のセントロカンピスタ。彼の存在がフットボール界で知られるようになったのは、1999年ナイジェリアで開催されたムンディアルU20の大会での活躍だ。チャビやガブリが活躍したスペインU20代表が優勝を飾った大会だが、チャビやロナルディーニョ、あるいはフォルランを押さえて、ケイタがこの大会の最優秀選手に選ばれている。そして、これがフランスクラブの目にとまることになった。

ヨーロッパに進出してきてからの最初のクラブはオリンピック・デ・マルセイユ。だが、ヨーロッパ最初のシーズンでもあり、若干19歳のケイタはこのクラブでは活躍していない。わずか6試合に出場しただけで、翌年はフランスリーグ二部カテゴリーに所属していたロリエンというクラブに移籍。そして1年でこのチームを一部リーグに昇格させる主役の一人となり、さらに翌年にはフランス国王杯まで手に入れることになる。この活躍が認められ、2002−03シーズンにはレンスに移籍。ここで5年間プレーした後、2007−08シーズンにセビージャに移籍料400万ユーロで買い取られることになる。わずか1年後に、1400万ユーロでバルサに買収されたケイタ選手、

叔父に当たるサリフ・ケイタという人が指導していたフットボールスクールで、彼は少年時代を過ごしている。同じバマコ生まれのディアラ(現レアル・マドリ選手)も、このフットボールスクールの出身だ。ちなみにこのサリフ・ケイタという人は元バレンシア選手でもあり、1970年に最初のアフリカ最優秀選手に選ばれた人物でもあり、ヨーロッパで活躍したほぼ最初のアフリカ人選手でもあるらしい。ケイタの従兄弟には、やはり元バレンシア選手であり、リバプールを経由してユベントスでプレーしているシソコという選手もいるし、マルセイユでプレーしているカデルという選手もいる。血筋的にはまったくもって問題なし、年齢的にも良し、あとはバルセロナの水にできる限り慣れること、それだけだ。フランスパスポートを所持している彼とバルサとの契約は、2012年までの4年間。違約金は9000万ユーロと設定された。

スエルテ!ケイタ!
ブエナ・スエルテ!


ペップ監督誕生まで(4)
(08/08/06)

2006−07シーズンが終了し、キケ・コスタス監督率いるバルサBは、クラブ史上初の三部リーグ転落という異常事態を迎えた。この異常事態はバルサBのカテゴリー降格ということだけではなく、それまで三部リーグに所属していたバルサCチームの解散という事態まで生じさせることになる。多くのバルセロニスタが怒りをもってクラブ首脳陣に対して批判を表明したり、あるいはどうしようもなく気分消沈してしまったのは自然のことだ。バルサAチームであれば、クラック選手を獲得したりすることで、ファンに対して希望を与えることが可能となるが、バルサBチームにはクラック選手はやって来ない。バルセロニスタに何らかの明るい希望を与える方法、それは明日を感じさせる監督を招聘することしかなかった。こうして、ペップ・グアルディオラは、ミニエスタディに戻ってくることになる。今度は監督としてミニエスタディのベンチに座ることになった。

それでも批判と疑問が残らなかったわけではない。コーチングライセンスを取得してから1年の未経験監督に、果たしてバルサBを任せることができるのだろうか?三部リーグという難しいカテゴリーで、攻撃的フットボール・ワンタッチフットボールをフィロソフィーとする監督でやっていけるのだろうか?誰もが持つ疑問であった。だが、ペップ新監督は期待以上の試合内容と結果を伴って、バルサBチームを二部Bカテゴリーに昇格させることに成功する。それも監督就任1年目にして目標を達成してしまう。さらに驚くべきことに、監督2年目にして、ミニエスタディからカンプノウへと仕事場を移してしまう。

多くのバルセロニスタが期待した(と思われる)モウリーニョ新監督就任は実現せず、監督経験1年の、しかも三部リーグでの好成績を評価されたペップが新監督に就任してきた。バルサBでどのようなスタイルで戦い、どのような結果を残してきたかは、ラ・マシアHPで詳しく触れているし、監督と決まった以上、昨シーズンの終了間際の“こちらカピタン”で、できる限り期待の持てる部分を探し出そうとする努力もしてきた。そう、もうモウリーニョのことはスッキリクッキリ忘れてしまおう。しかも我らが新監督ペップは、なかなかのものだという気がしてきた。

2008年6月16日、カンプノウ記者会見場では一番広い“パリス”と名付けられた部屋で、監督就任記者会見がおこなわれた。大勢のカメラマンとジャーナリストの前に、少々緊張気味のペップが登場してくる。どうでもいいラポルタとチキの挨拶が終わり、ペップが語り始める。その内容が素晴らしく良い。5年間にわたってどこまでも紳士で常識的で、だが限りなく味気ないライカー発言を聞いてきた身としては、とてつもなく新鮮な発言だったと言っていい。

「我々コーチングスタッフが考えていることは、ロナルディーニョ、デコ、エトーの3人は計算外と言うことだ。これからは名声を博している選手だろうが無名の選手だろうが、すべての選手がゼロからのスタートとなることを知って欲しい。何という名前の選手であれ関係なく、月曜日から土曜日までの練習内容次第で、試合招集メンバーが決まることになるだろう。」
なんと新鮮なことか。なんと真実味にあふれていることか。これを聞いていたとき「酒の臭いをさせながら練習に参加してくるような選手や、同僚の批判を公の場でするような選手や、練習そのものに出てこない選手は、いかに“クラック”と評価されるような選手でも、我々のチームには必要ない。」と聞こえたかのような気がした。この発言をもって移籍料が下がってしまうと言うようなケチなことを言っちゃあいけない。この3人が計算外選手であるということは、暗黙の了解ですでに世界中のフットボール関係者が知っていることだ。ライカーには間違ってもこういう発言は期待できない。

ペップは続ける。
「時間をくれというような気持ちはさらさらない。バルサに過渡期など存在しないことは、誰よりも知っているつもりだ。最初の試合から結果を出し続けることが我々の目的であり、それを達成する自信は十分ある。現在抱えている選手だけでも素晴らしいチームができるだろうし、その意味ではレアル・マドリは覚悟した方が良いだろう。昨シーズンのようなラッキーなシーズンはおくれないことになるのだから。」
これは、もう100%モウリーニョだ!

そして、カンテラ時代を含めると、16年間にわたってクラブに在籍した正真正銘のバルセロニスタならではの発言が、まるで夏の花火のようにバァ〜ンと空高く打ち上げられた。
「今回だけではなく、昨シーズン(バルサB監督に就任)のことも含め、自分を高く評価してくれた人々に感謝している。バルサという偉大な歴史を持つクラブで、つまり時の会長が誰であることなどまったく関係なく、常に偉大なクラブとして世界中に認められてきたバルサで、監督という重要な役目を授かったことに誇りを感じている。」
この発言がされた瞬間のラポルタの表情を見逃してしまったが、“俺が俺が”のこの会長の心の内は果たしていかがなものだっただろうか。

ペップバルサがタイトルを獲得することができるかどうか、それは神のみぞ知るところだ。今のところ少なくとも言えることは、ここ2年間見られなかった汗を流す11人の選手が、100%の力を振り絞って相手ゴールに襲いかかり、そして自陣を守りつくす90分の試合展開が期待できそうな予感がすることだ。これまでのプレステージでの練習で、そして練習試合で、その片鱗が見え始めている。

スエルテ!ペップ!
ビスカ・エル・バルサ!


ペップ監督誕生まで(3)
(08/08/05)

2000年夏、これまで22年間にわたって会長席を独占してきたジョセップ・ルイス・ヌニェスが、クラブを去っていった。新会長には、ジョアン・ガスパーがソシオ選挙によって選ばれた。3年間監督を務めたバンガールも去り、新たにセラ・フェレールが監督に就任。バルサファミリーに多くの変化が生じようとしている時期であり、10シーズン目を迎えるペップの内部にも精神的な変化が起きようとしていた。

そう、ペップはバルサを離れることを決意した。その旨を発表するために記者会見が開かれ、翌日のエル・パイス紙インタビューで、バルサを離れることを決意させたいくつかの理由を語っている(チキートコーナー・Pep4ever参照)が、その中で、例えば次のようなことを告白している。
「最近、特別に興味を引いた言葉があります。元ユベントスにいたデシャンプが言っていたのですが、『僕はスペインナショナルチームは、すごく良いチームだと思うよ。ただね、大きな国際大会でスペインが勝てるかどうかと聞かれたら、それはわからないと答える。フランスナショナルチームはどんな大会に臨むにしても、ディフェンスを優先している。まずディフェンスなんだ。そこで初めて相手のゴールを阻止することができる。そして、我々はワールドカップでもヨーロッパカップでも、チャンピオンになることができた。』
僕はね、こういうフットボール文化とは無縁なところで育ってきたんです。数多くの監督の下でプレーしてきたけれど、守備ということを教わった覚えはほとんどない。もしこのままバルサに居続けたら、彼の言うところのフットボールのもう一つの秘密を、最後まで理解できないかも知れない。もっと視野を広げたいというのが正直なところです。」

そして続けるペップ。
「世界のどこを探しても、バルサほど攻撃的なチームは見つからないでしょう。そして今のフットボール現象の一つの傾向として、もう流行らないシステムかも知れません。どこのチームを見ても、バルサとは他の方向に向かっているのは明らかでしょう。例えば、フランスに勝とうと思ったら、今までやってきたことと全く違う方法で戦わなければならない。いかに相手のゴールを防ぐかということに重点をおき、戦わなければならないでしょう。僕が学びたいのはそこなんです。」

2000−01シーズン途中でセラ・フェレールからレシャックへと監督が交代し、リーグ最終戦でリバルドのチレーナゴールで、どうにかチャンピオンズ参加権を得たバルサ。そのバルサ選手としてのペップの最終戦は、国王杯でのセルタ戦となった。カディス戦でのデビューを目撃し、そして幸いにも彼のサヨナラ試合を観戦することができた。だが、16年間住み続けてきた我が家から自ら離れることを決意し、冒険の旅に出ることを選んだ選手のサヨナラ風景は、どことなく清々しいものだったと記憶している。

彼が選んだ冒険の旅は、限りなく厳しいものとなってしまった。期待したミランやユベントスからのオファーはついにやって来ず、ブレシアという、カルッチオの中でも弱小クラブと呼んでいいところからのオファーのみだった(ちなみに今回バルサスタッフの一人となった、カタラン人にしてかつての水球界のマラドーナと呼ばれていたエスティアルテは、当時このブレシアの水球クラブの会長をしていた)。だが、衝撃的な事件が起こるのは彼がブレシアに入団して3か月目のことだ。ドーピング検査に引っかかり数か月の出場停止処分を受けてしまう(ペップ、無実を証明するまで参照)。

いつの日かカルッチオからプレミアリーグへという、ペップの冒険シナリオは完成することがなかった。ブレシアからローマへと移籍し、再びブレシアに戻ってきた彼はイタリアを去ることに決め、肘鉄イエロやバティストゥータ、カニージャなどの超ベテラン選手がプレーしているカタールのリーグへと移る。冒険の旅は、そろそろ終着駅を迎えていた。

スペインフットボール連盟が、かつてのエリート選手だけを対象とした、コーチングライセンス取得講座を受け始めたのは2005年から2006年にかけてのことだ。アモール、ブスケ、サリーナス、チャッピー、ナダール、セルジ、ルイス・エンリケ、ピッツィなどという、かつての同僚も一緒だった。ペップは2006年7月にコーチングライセンスを取得している。そんな彼を待っていたのは、かつて彼がプレーしていたミニエスタディだった。


ペップ監督誕生まで(2)
(08/08/03)

ペップがデビューを飾ったカディス戦はバルサの勝利で終わっている。招集が発表される前のことから試合前、試合中、そして試合後のことは、いまだに脳裏に焼きついていると語るペップ。
「試合がおこなわれる週の初めに、クライフ自身から招集されることをすでに聞いていた。試合の前日に戦術的なミーティングがおこなわれ、自分としては初めての参加となったが、手のひらが汗でビッショリとなっていたのを覚えている。とてつもなく緊張していたんだろうと思う。それは試合の前半もそうで、何か緊張感いっぱいでギクシャクしたプレーをしてしまった。普段のような自分のプレーができたのは後半に入ってから。自分でも納得のいくプレーができたと思う。試合後にレシャックに『明日からクライフチームで毎日練習するように。』と言われたとき、これでようやくエリートチームへの入り口にたどり着いたという思いで、何か叫びたいほど嬉しかった。」

だが、クライフは練習にはペップを毎日招集するものの、試合そのものには招集しない。それが彼のカンテラ選手に対する“鍛え方”の一つだった。ベンチに置いておくよりは、二部チームであれプレーさせた方が良いこと、エリートチームにたどり着くことは比較的簡単なことだが、それを維持することは限りなく難しいことを学ばさせる、それがクライフの考えだった。カディス戦でエリートチームでデビューしたあと、ペップは残りのシーズンをほぼキケ・コスタスチームでプレーしている。
「バルサアトレティクが今のところ自分のチーム。ここで頑張れば再びクライフチームに招集される日が来るだろう。」
そういう思いを抱きながら、1990−91シーズンが終了していった。クライフが監督に就任して初のリーグ優勝を飾ったシーズンでもある。そして後の世に語り継がれることになる“ドリームチーム”誕生の年でもあった。

翌シーズン、つまり1991−92シーズン、ペップは文字通りエリートチームを構成するメンバーの一人として選ばれた。シーズン開始当初からクライフチームに登録されたのだ。だが、彼の登場は第六節まで待たなければならない。1991年10月19日、ベルナベウでのクラシコがペップにとってシーズンデビューとなった。それもブートラゲーニョをピッタリとマークする難しい役目を要求されての90分間の試合だった。そしてこの試合以来、ペップは多くの試合にスタメン出場することになる。

本格的にエリートチームの仲間入りをするこの1991年の夏から、最終的にクラブを離れることになる2001年の夏まで、合計10シーズンをバルサでプレーしている。そして彼にとって生涯最高のシーズンとなったのは、この1991−92という本格的なデビューを飾ったシーズンと言える。1992年5月20日ウエンブリーでのチャンピオンズ優勝、衝撃的な2年連続リーグ優勝(最終戦での逆転優勝)、そしてバルセロナオリンピックでの優勝の立役者の一人になったシーズンだ。ここら辺のことはバルサ百年史第五章に詳しく触れられている。

ペップが本格的にカピタンとなるのは、バンガール第一次政権が誕生してからとなる。クライフバルサでのカピタンは、何と言ってもスビサレッタであり、バケロであり、そしてクーマンだった。クライフがクラブを去り、ボビー・ロブソンが監督に就任した時でさえ、彼はカピタンの一人ではあったものの、ロブソン監督の選ぶ第一カピタンはポペスクだった。そしてロブソン監督時代がわずか1年で終わり、バンガールが怖い顔をしてバルサにやってきた瞬間から、彼は初めて本格的なカピタンという存在となる。だがそれでも、個人的な印象で言えば、これまで見てきた選手の中では、特別のカリスマ性を持った選手というイメージは強いものの、絶対のカピタンという感じではない。バンガール時代は負傷が多く欠場することが多かったからかも知れないし、彼の代わりとなってカピタンを務めたフィーゴやルイス・エンリケなどの存在が大きかったからからかも知れない。


ペップ監督誕生まで(1)
(08/08/02)

ペップという愛称で親しまれるジョセップ・グアルディオラ・サラ。彼はサンペドルという町で、1971年にこの世に誕生してきている。バレンティとドローレスを両親とし、4人兄弟の3番目の息子であり、上にはフランセスカとオルガという2人の姉と、下にはペレという弟がいる。弟のペレは元バルサ副会長だったサンドロ・ルセーがナイキの仕事をしている時代に、彼の助手として共に仕事をし、現在もなおナイキのフットボール・マーケティングの責任者の一人として仕事をしているから、サラ家の息子2人は共にフットボール世界の中で生きていることになる。

ペップ少年が在籍することになる最初のフットボールクラブ、それは地元のヒムナスティック・デ・マンレッサというクラブで、9歳から13歳になるまでの4年間、このクラブでプレーしている。そしてラ・マシアに入寮してきたのが1984年、今から24年前のことだ(ラ・マシア物語グアルディオラ編参照)。インファンティルカテゴリーからスタートし、シーズンごとにカテゴリーを上げていくペップだったが、そのきゃしゃな体つきに変化はなく、どのチームでも一番細いのは彼だったという。そのため、フィジカル面の強さを持つ選手を好む監督に当たったシーズンなどは、ほとんどがベンチスタートだったらしい。それでも彼の持つ才能を疑うことなく、誰よりも彼の輝く将来を予想した人物がいる。ワンタッチあるいはツータッチで出されるパスの素晴らしさに、そして状況判断の素早さに誰よりも惚れ込んだ人物がいる。いまは亡き伝説のバルサスカウトマンであるオリオル・トルト氏がその人だ。今から2年前の2006年、カタルーニャ・アブイ紙上でのインタビューで、ペップは次のようにオリオル・トルト氏を偲んでいる。
「人間的な素晴らしさはもとより、フットボール界に生きる正真正銘の職人という感じだった。いったい何時にラ・マシアにやって来て何時に自宅に戻っているのか、それがわからないほど一日中オフィスで仕事をしている人だった。いや、それは彼だけではなく、彼のもとで働いているスタッフたちにしてもそうだった。才能ある少年たちを発掘すること、そしてその少年たちの成長を助けることが、彼らの人生そのものという印象だった。残念ながら今の世界には彼らのような人々は見つからない。時代が変わったと言えばそれまでだけど、いずれにしても、彼らのような生き方をしている人がいなくなったのは寂しいことだ。今の自分があるのはオリオル・トルト氏があってこそだと思って感謝している。」

カンテラ時代の第一の恩師ががオリオル・トルト氏だとすれば、二番目の恩師はキケ・コスタス氏となる。当時のバルサ二部チームであるバルサアトレティクにデビューをした時の監督であり、昨シーズン奇しくもペップがバルサBの監督に就任したときの前監督でもある。そのキケ・コスタス監督との出会いは1987−88シーズン、ペップがフベニルBチームに所属したときだ。監督はキケ・コスタスだった。幸いなことに、彼もまたペップの独自の才能を誰よりも高く評価した人物だった。1987−88シーズンはフベニルAチームに上がり、1988−89シーズンはフベニルAチーム所属となりながらも、シーズン途中でバルサアトレティクに昇進し、ここで再びキケ・コスタス監督指揮下の選手となる。

バルサアトレティクでは約2シーズンプレーしているが、偶然にも、このチームを構成していた2人の選手が現在のペップバルサのスタッフとなっている。ティト・ビラノバ(現コーチ)とアウレリ・アルティミラ(現フィジカルトレーナー)の2人だ。ペップと違い、残念ながらこの2人はバルサAチームでプレーするチャンスには恵まれていない。バルサアトレティクを最後にしてバルサを離れ、それぞれ二部リーグ、あるいは二部Bカテゴリー、三部リーグなどでプレーし現役生活を終えている。

1990−91シーズン、クライフバルサは3シーズン目に入っている。クライフ監督とコーチのレシャック、そしてバルサアトレティク監督のキケ・コスタスは、現役時代一緒にバルサでプレーした仲間だ。クライフ、そしてレシャックは、週ごとにキケ・コスタスからのペップに関する報告を受けていた。クライフチームの練習にも時どき参加することが許されるようになっていた。19歳ペップ・グアルディオラのクライフバルサチームでのデビューは、時間の問題だった。そして1990年12月15日、翌日のカディス相手の試合に向けた招集メンバーにペップの名前が加えられた。ラ・マシアから最初に誕生した4番選手ルイス・ミージャは、クライフによって干されている状態であり、アモールはカード制裁を喰らっていた。クーマンもまた長期負傷の最中だった。ペップがデビューする材料がそろった。

12月16日カディス戦、ペップはスタメンでクライフバルサチームでのデビューを飾る。ポルテロにスビサレッタ、セントラルにアレサンコ、右ラテラルにセルナ、左ラテラルにナンド、ピボッテにペップ、彼の右にエウセビオ、左にチキ、メディアプンタにはバケロが配置され、ゴイコ、サリーナス、ラウドゥルップというスタートメンバー。ラ・マシアに入寮してきてから6年後のことだった。個人的に、当時はまだミニエスタディでの観戦病にかかっていない時期でもあり、初めて見たヒョロヒョロ選手の出現に驚いた記憶がある。でも、そんなことはどうでも良い。


沈黙を守り続けたメッシーに拍手!
(08/08/01)

「オリンピックが我々FIFA主催の大会でないとは言え、各国代表によって選出された23歳以下の選手は、参加することが義務となっており、選手が所属するクラブはそれを妨げることはできない。もし、そのルールを守らないクラブがあったとしたら、それはオリンピック精神に反するものである。」
悪い噂はあっても良い噂はまったく聞かないFIFA親玉ジョセップ・ブラッテルから、まさか“オリンピック精神”という言葉を聞くとは思わなかった。もっとも、C.ロナルドがレアル・マドリにスムーズに移籍できない状況を見て、このマッチロ・ブラッテルが“選手は奴隷ではないのだ”発言をして、マンチェスター関係者を怒らせたのは記憶に新しいし、このオヤジからどんな発言がでようと、それに驚くようではまだ人間ができていないということかも知れない。

いずれにしても、7月30日に発表された“メッシーは北京で喘息になるべし!”というFIFA裁定が下されることは、すでにこの“メッシー問題”がメディアを騒がせ初めたころから予想できることだったし、当然ラポルタたちもわかっていただろう。とっくのとうに会長席を去っていなければならないラポルタではあるものの、そしてこの夏に開かれるソシオ審議会によって、是非とも会長退陣となることを期待しているものの、この“メッシー問題”に関してだけは、五重丸の高評価を差し上げたいと思う。北京に行かせるにしても、可能な限り長い期間にわたって、メッシーのプレステージ参加をそれなりに成功させたこと、チキのアイデアか、あるいはペップのアイデアか、誰のものだかわからないので、一応ラポルタのものとして評価しよう。よくやりました、ラポルタさん。でも近いうちにサヨウナラ。

多くのバルセロニスタが今シーズンのメッシーにかける期待は、例年以上に大きいものがあると思う。R10やD20がいなくなったこともあるだろうが、ペップ監督の下で、今シーズンこそ大爆発するのではないかという予感(こちらカピタン“不透明な時代の到来”08/05/18)があるだろうし、彼に頑張ってもらわないと困ってしまうという現実的な部分もある。したがって、ソシオの“時の代表”として指揮をとる会長が、可能な限りメッシー擁護を図るのは当然のことであり、またソシオに対する義務でもある。

毎年毎年、プレステージが始まるころになると、フィジカルトレーナーなり物理療法士なり、あるいはコーチたちが、その重要性についてメディアに語っている。今シーズンは、ペップの強い要望によってクラブに加入してきたフィジカルトレーナーのブエナベントゥーラ氏が次のように説明していた。
「シーズンを通じての練習で最も大事なものとなるのが、このプレステージでのフィジカル的なトレーニングと言って良い。もし、この段階でのフィジカル調整がうまくいかないと、シーズンを通じて100%のものにならないと言っても過言ではない。特にメッシーのような筋肉系に問題が生じやすい選手には、この時期のフィジカルトレーニングは、他の選手のそれより更に重要なものとなる。代表での練習とプレステージ期間での練習は、まったく違うものだし・・・。」
その大事なプレステージでの合同練習に、メッシーはこれまで一度として満足に参加できたためしがない。そして、毎シーズン恒例となっている負傷生活。

本格的なバルサ一部デビューシーズンとなる2005−06、彼はムンディアルU20の大会に“アルゼンチン代表”として出場しており、満足なプレステージ生活を送ることができなかった。2006−07シーズン、ドイツでのムンディアルがあった年であり、“アルゼンチン代表”としてプレーした後、だいぶ他の選手に遅れてプレステージに参加してきている。そして昨シーズン、今度はコパ・アメリカだ。“アルゼンチン代表”として招集されていたため、スコットランド遠征にもアジア遠征にも参加できず、他の選手と比べても半分ぐらいのプレステージ期間しか送っていない。ムンディアルU20、ムンディアル、コパ・アメリカ、3年連続して、バルサは“アルゼンチン代表”にメッシーを貸し出している。文句一つ言わずに、これまでバルサはメッシーを貸し出すことを強制されてきた。それがフットボール界の掟であるというのだから仕方がないと言えば仕方がない。だが、4年目に少々バルサがゴネただけで、それも結果的にはメッシーのためになることであるにもかかわらず、アルゼンチン愛国主義者共の騒ぎ方は気に入らない。何とも気に入らない。今から20年以上前、サッチャーはフォークランド諸島だけではなく本土にも爆撃隊を送るべきだった・・・というのは冗談ですよ!

今シーズンのメッシーの目標、それは他の選手のそれと同じように、タイトルを一つでも多くとり、クラブにとっても個人的にも良いシーズンにすること。だが、他の選手と異なる彼独自の目標があるはずだ。それはシーズンを通して負傷しないこと、90%以上の試合に出場すること、これが彼独自の目標となる。これまで彼は素晴らしい選手であることを世界中のファンに示してきたが、まだシーズンを通じて負傷しない選手であることは証明していない。一シーズン5か月、あるいは6か月だけの選手ではなく、シーズンを通して負傷することなく、しかもハイレベルを保ってプレーできることを証明しない限り、メガクラックとはなれない。

「オリンピックに参加できないなんて、メッシーが可哀想、ウエェェェ〜ン!」
そうじゃないのよ、お嬢さん、お坊ちゃん。メッシーにとって悲劇なのは、今シーズンも再び100%のプレステージができないこと、そのことなのです。