2007年
8月
2008年

ガンペル杯終了
(07/08/31)

パラウ・ブラウグラーナを会場にして、16時きっかりにソシオ審議会開催。15万ソシオの中から抽選で3千人強の出席権利を持つ人々がこの日のために選ばれている。30年近くソシオをやっている知り合いも一度として選ばれたことがないらしいが、個人的にも長い間ソシオをやっているが選ばれたことがない。これをテレビ観戦。5時間も続けてテレビ中継する方も方だが、それを見てしまう方も異常であり、会社務めをしている労働者にはできない芸当だ。

3千人強の“ソシオ審議委員”とでも呼べばいいのか、この審議会に出席する権利を持つソシオの中から実際に足を運んだ人々は400人強。15万ソシオを持つクラブの重要な項目、例えば、昨シーズンの収支決算の承認、今シーズンの年間予算の承認、ナイキとの2018年までの長期契約の承認、エトセトラ、エトセトラなどが、わずか400人強のソシオの判断によって決められることになる。毎年この時期となると思う事ながら、どうもこのシステムはおかしい。では、どうすれば良いのかという“一つの代案”が思い浮かべば良いが、真剣に考えたことがないだけに、どうでもいいおかしさとなるもの例年のこと。

なぜか見てしまうマラソン中継のように、この日のソシオ審議会のテレビ中継も何となく5時間見続けてしまう。承認されなければならない一つのテーマに関して、ラポルタを中心とした理事会員がまず説明し、そのあと質問のあるソシオが質問を投げかける。一つのテーマに5人しか質問者がいないこともあれば、30人も質問者が登場することもある。そしてすべての質問が終わった後で、それに対し一つ一つ回答していく理事会員。まさに直接民主主義と言ってよい風景。だが、国会風景にもよく似ている。ハキハキと答弁する政治家、ノンベンダラリンと質問に答える政治家、このバルサ理事会の連中にもそういうタイプの違いはあるが、共通しているところは皆さん頭が良さそうなところ。バール経営の親父や年金所得者となっているおじさんおばさんソシオに対し、うまいこと言って丸め込んでしまうところはさすがだ。彼らが家路につく頃には「何で納得してしまったのだろう」と自らに疑問を投げかけているかも知れない。

22時ちょっと前にソシオ審議会が終了し、カンプノウではガンペル杯が開催。レアル・マドリの“ガンペル杯”であるサンティアゴ・ベルナベウ杯はプエルタの死を偲んで中止という判断をしたが、それはそれで尊重できるもの。だが、予定どおり開催したバルサの判断もそれなりに正しいと思う。まして今回のガンペル杯はカサウス氏に対するセレモニーの意味合いが強かっただけに、ガンペル杯開催は正い判断だっただろうと思う。

もともとよく知らないインテルの選手ながら、カンプノウに登場した選手はさらに知らない選手たち。週末の試合に備えて主力選手を温存というように聞いていたが、それにしても“ライト”な選手たちによるチーム構成。だが、そんなことには関係なくファンが集まるのがこの何年かのガンペル杯。シーズン中のクラシコや、ビッグネームを持つ相手のチャンピオンズの試合より、ガンペル杯の方が人が集まる。今回も9万8千人強。2割がソシオ、4割が普段カンプノウに入れないファンの人々、そして残りの4割が旅行者だという。入場券売り上げ予想収入約500万前後ユーロ、わずか2時間でアジアツアーをやってしまったような売り上げだ。

途中出場してきたモッタへのブーイング。ささやかではあったものの彼に対するブーイング。正しくもあるブーイングとは言え、そして個人的にはバルサのユニフォームを着こんだ選手に一度たりとしてブーイングしたことがないとは言え、そしてさらに予想できたこととは言え、このシーンだけは見たくなかった。急げ!モッタ!

余談ながら、バルサウエッブページの日本語版が充実してきたという遅い噂をたよりにのぞいてみる。なかなか頑張って訳しているようだが、どうも実際の“音”をたよりにカタカナにしているのではなく、文法的な決まりからくる約束事を最優先して発音しているようだ。つまり、このコーナーを書いている、文法などにはまったくもって詳しくない人物とは正反対の、プロ翻訳者と言える。ガンペール杯、ヤーゴ・ファルケ、トゥーレ・ヤヤ、もともとカタカナにするのには無理があるとは言え、ガンペールと書かれると何か他の人物のような気がしてしまうのだなあ。ガンペールって、なんか靴屋の親戚みたいだ。


ガンペル杯
(07/08/29)

第42回ジョアン・ガンペル杯。今回はインテル・デ・ミランを相手におこなわれる。もちろん、勝敗など二の次の試合であり、新しく入団してきた選手への歓迎、昨シーズンを最後にクラブを離れていった選手に対し、ファンから感謝の意を示すチャンスとなるフィエスタ試合だ。ジオ、ジュリー、マクシボン、ベレッティ、そして何とコネッホまで招待されているらしいが、まあ、最後の坊やは少なくともやって来ないだろう。良い子ブリッコ白ウサちゃんはそれほどの根性を持っているとは思えない。そのかわりと言っては何だが、根性の男ルイス・フィーゴは仕事だから(監督が招集すればの話だが)やって来る。

だが、いかにカンプノウの雰囲気を盛り上げてくれるルイス・フィーゴさんがやって来ようと、彼への大ブーイングが注目を浴びるフィエスタ試合となってはいけない。もちろん、メディアで噂されているモッタインテル移籍交渉の場としてのフィエスタ試合でもない。なぜなら、少なくとも今回のガンペル杯は、ニコラウ・カサウス氏に向けた最後のお別れ試合という意味合いがメインだからだ。

ファンやメディアを前にしてさんざん嘘を突き通した二百枚舌を持つ男が、バルサの最大のライバルであるレアル・マドリに移籍したときでさえ、彼をいっさい非難することなく、クラブに多くの献身を捧げてくれた一人のプロ選手として褒め称え続けたニコラウ・カサウス氏。ヌニェス政権誕生と共に副会長職を長年務め、そしてガスパー政権が誕生すると同時に“名誉副会長”として一線から身を引いていた。その我らが名誉副会長が8月に入ると共にこの世を去っている。享年94歳。

90歳の誕生日を記念して彼の伝記本“エル・セニョール・デル・バルサ”という本が出版されている。スペイン・ヨーロッパの激動の時期を生き抜き、そして生涯を通じて一人のバルセロニスタとして、クラブに貢献してきたことなどが書かれている。今これを書いているノンベンダラリン人生を続けてきた人間には、まるで想像もつかないような彼の通過してきた厳しい人生の瞬間をかいま見ることができる。だが、ここでは“バルサ百年史”からほんの少しだけ引用してみよう。

「一般的に言って、市民戦争はカタルーニャに想像もつかない『対決』を生みました。共和制派対ファシズム、そして左翼同士の抗争です。しかし、最悪だったのはその後やってきた『戦後』です。戦争中は少なくても『正義』や『論理』が存在したけれど、フランコ軍が入ってきてからの『戦後』は、屈辱と忍耐の時代に突入してしまった。特に、共和制を信じて戦ってきた人々には地獄のような毎日でした。私は政治家ではなかったが、カタルーニャジャーナリスト組合を指揮していました。ジャーナリストの基本的権利を守るために、一生懸命戦ってきたんです。そのことがファシスト政権は気にくわなかったんですね。フランコ軍がバルセロナに入って来て間もなく逮捕されました。裁判とは呼べないようなものでしたが、その結果私は死刑囚となってしまったんです。」

「結局、刑務所には5年間入っていました。その内の72日間はいつ死刑が執行されてもおかしくなかったんですね。昨日は隣の房の知り合いが死刑台に向かい、今日はその隣の知り合いが、という日が72日間続きました。しかし幸運にも、私は逮捕されてから5年後に執行猶予の身になれました。」
(12 名誉会長ニコラス・カサウスの思い出)より。

個人的には、いつか見たスポーツ番組でのシーンを思い出す。まだ監督がバンガールの時代。カンプノウだけではなく、アウエーの試合でもアンチバンガールの人々による垂れ幕が観客席に目立つ時代。確かサダールでおこなわれたオサスナ戦と記憶している。ここでもアンチバンガール的内容の垂れ幕が多く見られ、その垂れ幕の後ろに座るバルサペーニャの人々のもとに、トコトコとニコラスが歩み寄るシーンをテレビカメラが追いかける。いつものように丁寧な挨拶をしたあと、ニコラスは真剣にして悲しそうな顔つきで彼らに話しかける。このシーンをアップでとらえるテレビカメラ。
「お願いだから今日だけはその垂れ幕を下げてもらえないだろうか。実は、バンガール監督にとって今日はとてつもなく辛い日なんだ。昨日、彼の母堂が亡くなられている。それでも彼はこの試合を指揮するためにここまで来ているんだ。ここは一つ、私のわがままを聞いてもらえないだろうか。」
バンガールを追求するすべての垂れ幕がわずかな時間でなくなったのは言うまでもない。

副会長を務めた20数年間、アウエーの試合には体調が許す限り必ずチームに同行している。ニコラスはバルサ大使と言ってもおおげさな存在ではなかったようだ。ヌニェスに対する悪口も、ガスパーに対する悪口も、そしてラポルタに対する悪口も聞いたことはあるが、ニコラスに関する批判は聞いたためしがない。

ヌニェス政権時代に何人かいた副会長の一人であり、そしてニコラスに最も親しかったムソン氏が葬式の席でおしゃれな挨拶をしている。
「彼は誰にも愛された心優しい人物。きっと天国に行っても多くの友を作り続けるだろう。仲良くなったエンジェルたちも白い羽を捨て、アスール・グラーナ色の羽をつけるに違いない。」
合掌。

※若すぎる死。アントニオ・プエルタ、セビージャのビルヘン・デ・ロシオ病院にて8月28日12時39分死亡。2か月後誕生予定の我が子の顔を見ることもできず・・・。言葉もなく、合掌。


TV放映権戦争
(07/08/27)

今から約20年ぐらい前の古い話題。まだスペインのテレビはTV1とTV2という、いわゆる国営放送局しか存在しておらず、民間放送局が誕生していない時代の古いお話。ノンビリしていた時代だったから、その2局の番組も朝から始まるわけではなく、午後あたりからのスタートだった。視聴率争いなどという発想も当然ながらない。何たって2局の国営放送局しかないのだから。

ライバルのいない世界にあっては、資金を投げ打ってでも“実況放送”するなどという発想は誕生しない。それはフットボール実況放送についても同じだ。つまり、今では考えられないことながら、TV1はクラブに放映権を支払うことなく好き勝手に、週1試合の実況放送をしていた。もちろん、かつての(と言っても、今のことは知らないけれど)日本が、野球の試合となると読売ジャイアンツが絡む試合しか放映していなかったように、ここではレアル・マドリの試合を集中的に放映することになる。だが、たまにバルサの試合も“仕方なく”1か月に1回か2か月に1回放映されることもあった。

こういう時代にあって、一人の常識はずれなアイデアを持った人物が登場する。当時バルサ会長のジョセップ・ヌニェスだ。まだ当時はそれほど大きくない土建屋の親分でありながら、その後、世の常識をぶち破りながら大きな建設業の会社の会長となるヌニェス氏。その彼が、この“タダ放送”という世の常識に疑問を投げかける。
「試合放映されるクラブには放映料なるものを受け取る権利があるのではないか。」
そう考えた我らがヌニェス氏は各クラブを味方にし、テレビ局のカメラをスタジアムに入れることを禁じ、大ストライキに入ってしまう。そして何週間か試合放映がない期間が続いたあと、この非常識なアイデアが勝利する日がやって来る。この期間が後の世に“TV放映権第一次戦争”と名付けられことになる。

ここまでは、何となく残っている記憶で説明することができるものの、今回の“TV放映権第二次戦争”に関しては、各メディアが発表しているものを頼りにするしかない。単純に表現してしまえば、“ヌニェスの反乱”以来TV放映権の独占企業と化していたソゲカブレという会社と、それに対抗するようにその世界に進出してきたメディアプロとの、複雑にして奇っ怪な戦争が原因となるようだ。ちなみに、スペインフットボールの世界で初めて“TV放映権”を買い取ったソゲカブレの前身の会社は、現在のメディアプロの社長であるジャウメ氏が指揮をとっていた。

メディアプロの“放映権独占”に向けたプランニングはすさまじいものがある。2009−10シーズンからとはいえ、すでに一部リーグクラブ、二部リーグクラブを含めた42のクラブのうち、39のクラブにかんする放映権を獲得している。つまりこのシーズンからこの会社が独占を勝ち取ってしまうことになる。それがこれまで独占の味を堪能してきたソゲカブレは気にくわない。それでかどうか、ソゲカブレはつい最近、6000万ユーロ近くの返済をメディアプロに請求している。そしてそんな借金はないと主張するメディアプロは、裁判に持ち込んでその請求の不法さを訴えた。この問題が解決しない限り、両者間におけるチクチクした紛争が続くことが予想されるようで、少なくともリーグ第二節前には解決不可能な問題らしい。したがって、遠いアジアはもちろん、お近くのヨーロッパ諸国でも見られなかった土曜日第一節の試合と同じように、来週も同じことが繰り返される可能性があるわけだ。

何回も触れているように、ピレネー山脈を越えると他の国々とは違う現象が見られることになる。例えば、イングランド・プレミアリーグでは、すでにリーグ戦折り返し地点近くとなるクリスマスまでのすべての試合の日にちと時間が決定しており、さらに各試合を放映するテレビ局さえ決まっているという。だが、スペインでは事情が大いに異なることになる。1週間前の今日の段階で、第二節の各試合がおこなわれる時間はおろか日にちさえわからない状態だし、ましてどの試合がどこの局で放映されるかなんてことは神様にもわからない状態だ。

そしてこの第一節には、スペインテレビが誕生してから初めてのことが起こった。なんと、土曜日と日曜日合わせて3試合(2試合がナマ、1試合が2時間遅れの録画)がオープン放映がおこなわれた。放映したのはラ・セスタという局で、メディアプロが最大株主となっているテレビ局。他のヨーロッパのテレビ局では試合放映はほぼすべて有料(PPV方式)となっているのに、その時代傾向に逆らうようなスペインらしい事件が起きたことになる。これはチクチク戦争が生んだ珍現象だ。

と言うわけで、At.マドリの買った高級メロンの一口めは腐っていたことは土曜日にわかったものの、明日のことなどチットもわからぬスペイン事情でした。


シーズンスタート
(07/08/26)

チャンピオンに敬意を表して、レアル・マドリのことから触れよう。ここ15年、カペロはバルサの天敵と言ってよい存在だった。バルサ圧倒的有利と予想されていながらも、カペロミランに敗北することによりクライフバルサの終焉が訪れた94年チャンピオンズ決勝戦。ここからどうも嫌らしい存在として天敵カペロが誕生。そして第二弾。ロナルドやフィーゴを擁したロブソンバルサは国王杯とレコパを獲得しながらも、リーグ戦ではわずかの差でカペロマドリに首位をとられてしまった。天敵が天敵として再確認。そして第三弾。これまた圧倒的にバルサ有利と思われた昨シーズンのリーガも、終盤の奇跡的な追い上げにより、カペロマドリに奪われてしまった。これを天敵と言わず何と言う。

そのカペロが今シーズンはいない。“結果”だけを要求され、奇跡的にもその要求を満たしたにもかかわらず、天敵は消える運命となった。そしてカペロマドリに欠けていたスペクタクルフットボールを実現するために、バルサソシオであるベルナルド・シュステルが監督に就任。

国王杯でヘタフェがバルサに4−0というスコアで歴史的な逆転劇を演じた日、この試合を観戦していたカルデロンが次期監督にはシュステルしかいない、そう確信したとしても不思議ではない。こんな弱小チームでもバルサ相手にスペクタクルなフットボールができるじゃないか。グイサというような元バルサBにいたデランテロでもゴールが決められるのだから、バンザマンがいるマドリではさらに滅茶苦茶ゴールが決まっちゃうぞ。カカも入団することは間違いないから、これでソシオが満足するスペクタクルなフットボールが戻ってきてしまうじゃないか。そうカルデロンは思ったのだろう、と、勝手に想像するのは、想像する側の自由だ。そうだとすれば、バルサとしてもこの試合に負けたかいがあったというものだ。タダでは転ばないバルサ。

タダと言えば、タダで憧れのマドリに入団したコネッホは、ひょっとしたら我らがチキが送り込んだ“敵陣潜入者”かも知れぬ。カンプノウクラシコでオウンゴールを決め、白いユニフォームに浮かぶマドリエスクードに口づけしてゴラッソを祝うコネッホ。もしそんなシーンが誕生したら過去のことを忘れて、彼に大いなる拍手をおくってあげよう。

さて結論。1億2000万ユーロ(約190億円!)という資金をどこから集めてきたのかは謎なれど、そして神をも恐れぬ浪費をおこなって見栄えの良いチーム作りをしようと、カペロのいないマドリなどちっとも怖くはない。“パボン坊ちゃんとジダーン野郎たち”作戦はすでに過去のものとなり、カンテラもいなければクラック選手もいないチーム作りにこれだけの資金を使おうと、バルセロニスタは恐れはしない。まして3000万ユーロも浪費してタルヘッタ大王を獲得したり、3600万ユーロを投げ打って昨シーズン9試合しかスタメン出場していない“ガラスの足”を持つオーベル二世を連れてこようが、そんなものは屁のカッパだ。

だが、それでもマドリはマドリ。しかも昨シーズンのリーガチャンピオンに敬意を示さないのは教育上よろしくない。常に直接ライバルであるマドリに対し、それなりの関心と用心を心がけることを、昨シーズンの失敗で学んでいるであろうバルサだから、ここは謙虚に、とりあえずクリスマス休暇前までに10ポイント程度の差をつけることができればよい。初めてチャンピオンズの戦いに挑むことになるセビージャが、リーグ戦との兼ね合いに苦しむことになるのは、これまでの多くの初参加のクラブが証明している。At.マドリ、このチームはいつも“高級メロンを買ってきたものの切ってみたら腐ってた”という歴史が続いているだけに、どう転ぶか予想がつかない。

そしてバルサ。我らがスポーツ・ディレクターであるチキ・ベギリスタインの偉大なる功績を認めよう。補強が必要な各ポジションに必要な選手を獲得しただけではなく、選手獲得値段のバブルがガビ〜ンと上昇する前に、常識的な価格で選手獲得した彼の功績は偉大だ。さらにマクシボンや伝説ベレッティを“有料”で移籍させた手腕は絶賛に値する。実際どうなるかは別として、モッタやエスケロをタダではやらんぞというその姿勢も非常に好感が持てる。そして、デコを現在のバブル価格で移籍させ、その資金に金庫内に眠るユーロを足し、セビージャのアルベスを獲得していたなら、カンプノウ敷地内にチキ銅像が建てられただろう。今日の段階で、3年前の“クラック”デコの変わりとなる選手はアルベスが最適だ。だが、贅沢を言ったらきりがない。いずれにしてもブラボー!チキ!

この場を借りて、伝説ベレッティにグラシアス。クーマンと共にクラブ歴史に名を残すことになった伝説の右ラテラル選手にグラシアス。攻撃参加すると共に、両チームに“危機”を発生させてくれた特異なラテラル・ベレッティが第二のチャッピーとなるようにスエルテ!

バルサの長い歴史にあって、最高級の選手を擁す最高のチーム作りに成功した今シーズンのライカーバルサの敵は、いつものことながらバルサそのものとなるだろう。多くの選手を満足させるためにライカースタッフは再びローテーションシステムを組む可能性はじゅうぶんある。そしてそのシステムを採用した際に時限爆弾的存在となるであろうエトーとデコ。一人場外乱闘を不発に終わらせる手腕が果たしてライカースタッフにあるかどうか、大いなる疑問ではある。

さて、とりあえず、ラーシング・サンタンデールを沈没させる仕事にとりかかってみよう。バモス!バルサ!


ボージャンとジョバニ
(07/08/25)

2002年インファンティルBに上がってきたボージャン、そしてやはり2002年インファンティルAに上がってきてたジョバニ、幸運にもこの二人をこの年から見続けることができた。そして2007−08の今シーズン、二人ともライカーバルサチームの一員となっている。自然の移りと共に時が経過し、少年たちは若者となり、そして年寄りはさらに年寄りとなる。

昨シーズンにはバルサBで一緒にプレーするようになった二人の道のりは、同じようで微妙に違う。インファンティルカテゴリーからカデッテカテゴリーを経て、フベニルチームにまで上がって来るまでの活躍は、同じように素晴らしいものがあった二人だが、フベニルAチームとバルサBチームでは明らかに違いが見られた。ボージャンがどこのカテゴリーでプレーしても期待に応える活躍を見せたのに対し、ジョバニの活躍は例のU17大会でスポットを浴びて以来、成長が止まってしまったかのようだった。フベニルAで1シーズン、バルサBで1シーズンプレーしているが、決して褒められた内容ではない。どちらかというと慢心が目につくプレーが多かった。100%の力を出し切ることが見られなかった彼のプレー態度が、昨シーズンのバルサBの不振の原因の一つと言ってもいい。明らかなモチベーションの欠如、それが原因だと思われたが、今シーズンのライカーバルサチームに混じってのプレステージでの活躍が、その予想の正しさを証明してくれた。ミニエスタディに集まる知り合いのカンテラファンにはこれが気にくわない。

確かにここ2年間のジョバニに関しては、個人的にも不満タラタラだ。それは、ここ1、2年のロナルディーニョの悪いところだけをすべて見本としたような風景が見られたからだ。まず、走らない。ボールを争っても負傷を恐れるかのように足を突っ込まない。自陣がピンチの状態であろうとハーフラインを越えて下がったためしがない。ボージャニスタ(ボージャン派)がたくさんいるのに比べ、ジョバニスタ(ジョバニ派)が少ないのはそのせいだ。と言っても、それはカンテラの試合を見続けてきたファンの人々の間のことで、プレステージでの活躍を見て彼の素晴らしさを知ることになった人々には、ジョバニスタが大勢いる。

90年代の中頃に彗星のごとくデビューしてきたラウルを見る機会があった人なら、当時の彼の新鮮なプレーに今のボージャンをダブらせているだろう。運動量が誰よりも多く、決してあきらめると言うことを知らず、気がつけば相手のマークを外してゴール前に走り込んでいる選手。そして何よりも、チームが苦しいときに自ら上を向くだけではなく、周りの選手をも引っ張っていくリーダシップを持っていた。そのキャラクターを今のボージャンに見る。そしてこれまでのところ、ジョバニにはそれが見られない。これは事実。

昨シーズンの後半からバルサBに上がってきたボージャンだが、16歳という最年少選手でありながら、春頃にはしっかりとリーダシップを発揮していた。13試合で10ゴールという成績は、彼としては納得できないものだろうが、それでも立派なものだ。もちろんシーズンを通じてプレーしたジョバニがアシストとゴールを足しても片手で数えられてしまうような成績しか残していないから、ボージャンとは比較できない。これも事実。

だがこれらのことは、あくまでもカンテラ時代の傾向に過ぎない。これからいよいよ“本番”に足を突っ込もうとしているまだ10代の選手の話だ。バルサB選手時代、テレテレとデランテロをやってきたルイス・ガルシアが、いろいろなチームで“本番”を経験していくうちに、立派と言っていいであろうデランテロ選手に変貌したような事実は数え切れないほどある。決して天狗にならず、今までのように謙虚な姿勢をボージャンに期待し、そしてプレステージでのようなモチベーションあふれるプレーを、例え二部Bカテゴリー相手の国王杯戦でも見せてくれることをジョバンニに期待しよう。

何年にもわたって暖かく見守ってきたファンに対し、見事に裏切ってくれたプロ精神大大大不足選手モッタのようには間違ってもならないことを付け加えて、スエルテ、ボージャン!スエルテ、ジョバニ!

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“ガビ”ミリート
(07/08/23)

1980年9月7日生まれのアルゼンチン人ミリートが、バルサ入団記者会見の席上で次のように語っている。
「フットボール選手として最も旬の時期に、この偉大なクラブに入団できてラッキーだと思っている。」
すでにスペインリーグで4年間にわたりプレーする経験を持ち、年齢も27歳を迎えようとしている今、確かに旬の時期を迎えているフットボール選手かも知れない。“ガビ”ミリート、2003年にアルゼンチンからスペインに渡り、サラゴサに入団している。

だが、本来であるならば、彼はレアル・マドリというクラブに入団しているはずだった。彼が所属していたインデペンディエンテ・デ・アベジャネーダというアルゼンチンのクラブと、フロレンティーノ・マドリの間ではすでに移籍に関して合意に達しており、スペインの首都マドリッドでおこなわれるメディカルチェックさえ済ませれば、350万ユーロの移籍料が支払われるはずだった。つまり、普通であるならばほぼ99%の確率で、レアル・マドリへの移籍がなされるはずだった。だが、フロレンティーノ会長の好きな言葉を引用すれば「彼はバルサの選手になるために生まれてきた」選手だったようで、メレンゲ入団は実現しなかった。彼はメディカルチェックに落っこちてしまったのだ。

「過去に大きな負傷をしたすべての選手におこなわれるように、彼に対しても厳密なメディカルチェックがおこなわれた。その結果提出されたドクター陣による報告書によれば、常にベストな状態で試合に望むことが義務づけられる世界最優秀チームであるレアル・マドリでは、危険が大きすぎるということであり、彼にとっては非常に残念な結果ながら、我がクラブへの入団はおこなわれないこととなった。」
ミリートの“大きな負傷”とは、2001年3月におこなわれた試合での右足膝十字靱帯断裂というものであり、リハビリに9か月もかかった大負傷のことだ。

だが、その後のマドリメディアが伝えるところによれば、真実は他のところにあるようだ。当時ジェネラルマネージャーであったバルダーノがミリートの獲得を画策したのに対し、当時会長フロレンティーノは反対の意見であったという。その理由は簡単に想像できる。“パボンちゃんとジダーン野郎”作戦を展開していたフロレンティーノ・マドリだが、ミリートはパボンちゃん組に入るようなカンテラ育ちではないし、かといってジダーン野郎組に入るクラックでもなかった。つまるところ、彼のユニフォームは売れないだろうというフロレンティーノの思いが、ミリートの入団を阻止した理由だというのが、大方のマドリメディアの予想となった。

4年契約で世界最優秀クラブに入団するはずだった“ガビ”ミリートは、それから4年後にバルサに入団することになった。
「いまだにレアル・マドリの件は気分が悪い。」
そう地味に、そして控えめに語るミリートだが、今回のバルサ入団で彼としては2回目の“復讐”を果たしたことになる。

1回目、それは2004年3月10日に、モンジュイクを舞台として戦われた国王杯決勝戦。ペセテロ、ジダーン、ベッカムというユニフォーム売りまくり部隊は、この3月の段階で2位に6ポイントの差をつけてリーグ戦首位を走っており、リーグ優勝と国王杯制覇というドブレッテを狙っていた。そして彼らの相手となるサラゴサは国王杯決勝戦に出てきているものの、リーグ戦ではカテゴリー降格を逃れる争いをしており、調子そのものも決して良い状態とは言えなかった。もちろん試合前の下馬評では、レアル・マドリ圧倒的有利で始まったこの決勝戦、何とミリートの執念が神に通じたか、サラゴサが2−3というスコアで勝利してしまう。そしてこの敗戦のショックが尾を引いたのか、リーグ戦でも優勝を逃してしまうフロレンティーノ・マドリ。

だが、そんな彼の個人的な“復讐”はともかく、バルサにとってデフェンサの重要な要となる選手の獲得に成功したことを喜ばなければならない。1997年、17歳という若さでメノッティ監督率いるアベジャネーダでデビューを果たし、21歳の時にはすでにカピタンマークを付けていた“ガビ”ミリート。その当時、彼の獲得を狙っていたバルサが、6年後にミリート入団を実現させることができた。

バルサとは4年契約、違約金9000万ユーロ。そしてサラゴサに支払われる移籍料1700万ユーロの支払い方法は次のようになっている。
・2007年8月・・・600万ユーロ
・2008年8月・・・600万ユーロ
・2009年8月・・・500万ユーロ
そして彼のバルサ在籍中に各種タイトル獲得ボーナスとして最高額350万ユーロがサラゴサに支払われる。

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ベルナルド・シュステル
(07/08/21)

何を隠そう、バルサというチームの試合を見始めてから「これは凄い!」と思った初めての選手、それがベルナルド・シュステルだった。まだフットボール事典に“クラック”という言葉が存在せず、“エストレージャ(星)”という単語で凄い選手を表現していた時代、彼はまさにエストレージャと呼ばれるに相応しい選手だった。ユニフォームにさんさんと輝く8番という数字、それは読売ジャイアンツの高田選手ではなく、ましてジュリーやイニエスタでもなく、このシュステルに与えられた背番号だ。

どういう選手だったかをどのように表現すれば良いのか。例えば、リケルメのように360度を一瞬のうちに見渡す魚眼レンズをもち、ラウドゥルップのような非常識なテクニックを擁し、クーマンには劣るもののベッカム程度のフリーキックの才能をもち、ナダールのようなロングシュートを可能とする右足をもっていた選手、それがかつてのバルサ8番ベルナルド・シュステル。

だが、プレー内容の素晴らしさとは別に、常にスキャンダルな話題を提供してくれたことの方が印象に残っている選手でもある。例えば、オーベルのように、少しでも負傷すると間違っても試合出場することはなかったし、金に関してはかつてのバルサ7番のようにガッチリしており、その上金に超うるさいマネージャ兼女房をもっていたし、常にメディアを騒がせてくれたウリスト・ストイチコフのように、場外爆弾発言をバンバンと打ちまくってくれた。そしてベルナベウでのクラシコで観客席に向かって“コルテ・デ・マンガ”をしたくれた選手は、かつてのジョバンニとシュステル以外知らない。

プエンテ・アエレオに乗りバルサからレアル・マドリへと移籍した彼がカンプノウへやって来たとき、ボールに触るたびにわき上がる怒濤のようなブーイングに腹を立てたのか、ボールを右足で押さえたまま1分、いや2分ぐらいだろうか、どこにもボールを出さず、時間の経過と共に大きくなるブーイングと戦ったあのシーンは昨日のことのように覚えている。それにしても不思議なシーンだった。バルサが勝っていたから誰もシュステルに対しプレッシャーをかけず、そしてマドリの選手にしても誰一人としてボールを要求しなかった。この試合を止めるかのようなシュステルのプレーに対し、審判がイエローカードを出したが、ボールを出さないことでカードが出たのを見たのは今もってこれが最初で最後だ。

そのシュステルがマドリの監督に就任。もし、バルサとマドリの両方からオファーが来たとしたなら、迷わずバルサを選んだだろう。だが、彼にとって残念なことに、そしてバルセロニスタにとって幸運なことに、バルサからのオファーは来なかった。いまだにバルサソシオである彼は、それでも、彼はたぶん悩むこともなくマドリの監督就任のオファーを受け取ったのだろう。プロの監督として始めて経験するビッグクラブでの監督経験。そしてその将来は限りなく・・・スペクタクルだ。

カペロは昨シーズン監督に就任して以来、マドリメディアからの休みない強烈な批判に耐えることを要求された。プレステージからリーガ最終戦まで、シーズンをとおして絶え間なく彼に批判が浴びせられたが、そのタヌキぶりをもってすんなりと生き延びた。だが、金髪ライオンシュステルはワオワオと真っ直ぐに走りまわる。メディアの批判に対しても面と向かってぶつかるのがシュステルだ。敗戦した時の審判批判もおこなわれるだろう。何と言っても、強烈な審判攻撃は選手時代からの彼の特徴の一つだからだ。さらに、彼とぶつかり合う相手はメディアだけではない。すでに名が売れている高給取りの選手たちとの衝突は、じゅうぶんに予想できる。

レアル・マドリの監督に就任する前、これまでドイツのコローニア、スペインのヘレス、レバンテ、ヘタフェと監督経験をしてきている。ヘタフェをのぞき、それほど賞賛に値する成績や、素晴らしい内容のフットボールを展開してきたわけではない。まだプロの世界に入ったばかりの将来を夢見る若手選手と、プロ選手としての最後のところを歩んでいるベテラン選手によって構成されていたチームを指揮していただけに、それほど選手との衝突はなかったようだ。だが、今シーズンから彼のもとでプレーする選手は、これまでと違いエゴの塊のような選手ばかりと言って良い。もしゴール運に見放され成績がパッとしない状態が続いたとき、メディアと衝突し、そして選手批判をするシュステルのスペクタクルなシーンが楽しみだ。

果たしてクリスマスまでベンチに座ることができるかどうか、それはひたすらボールがゴールネットに突き刺さる幸運があるかどうかにかかっている。いずれにしてもシュステルは自ら仕事を放棄することはしないだろう。カマッチョとは違い、自ら高額な年俸を放棄することなど、マネージャー兼女房が許すわけがない。カペロの解雇に300万ユーロを支払い、そして1ユーロも値切らないシュステルにも多額の解雇料が必要となるレアル・マドリ。シーズンが始まる前から早くもシュステル解雇予想。アラー!マドリ!


エリック・アビダル
(08/07/19)

6月の末、バケーション中のエリック・アビダルは突然バルセロナにやって来ている。まだバルサとリヨンが彼の移籍をめぐって厳しい交渉をおこなっている最中だった。リヨンは移籍料として2000万ユーロを要求し、それに対しバルサのオファー金額は1300万ユーロ、この金額の大きな差が両者間の交渉を難しいものにしていた。

このアビダルのバルセロナ訪問という事実は、彼からのリヨン関係者に対するプレッシャーと言ってもいい。もうクラブに残る意思はないという、暗黙の脅迫行為としてのバルセロナ訪問だった。そしてこの瞬間から、バルサ・リヨン両者間での交渉が急激に進展し始めた。リヨン側としてはいつまでも2000万ユーロという移籍金額に固執することは無駄であり、彼らとしても譲ることを強制された。そして最終的に移籍料1500万ユーロというところで両者間の合意が得られることになる。

カリブ海に臨むアンティラナ・デ・ラ・マルティニカ島で生まれ育ったアビダルの両親たちが、仕事を求めてフランスにやって来たのは1970年代。そして最終的にリヨンの街に居をかまえることになる。1979年7月11日、エリック・アビダルがこの街で誕生する。貧しい移民の家庭で育った彼は、いわゆる“フランス・フットボール・アカデミー”による近代的なシステムのもとで成長してきたフットボール選手ではない。小さい頃から狭い路地でボール蹴り遊びをし、気がついてみれば近所のフットボールクラブに入り、そしてそのプレーぶりに興味をもった地元の大きなクラブに入団していく、そういう過程を経てきた選手だ。

地元の大きなクラブと言ってもオリンピック・リヨンには入団できなかった。何回も入団テストを受けながらもそのたびに“ノン”の返事が返ってきたという。20歳という年齢で始めてプロ契約を結んでいるから決して早いほうではない。そのクラブはリヨン・ラ・ドゥシェレという。だが、彼が本格的にその名を知られるようになるのには、2年間プレーしたモナコ、やはり2年間プレーしたリージャでの活躍以降だ。そしてその活躍を見逃さなかった“地元”リヨンがついに彼の獲得に興味を示すことになる。2004年の夏、25歳となっていたアビダルが地元に帰ってきた。モナコで知り合った奥さんも一緒だった。そしてそれから3年後、バルセロナにやって来た彼には、奥さんのハイエとの間にもうけたメリアーナとカネリアという2人の子供も一緒だった。ちなみに家族そろってイスラム信者だ。

1500万ユーロという移籍料は、バルサのデフェンサ選手としては歴代2番目に高額なものとなっている。もっとも彼が入団してきてから1か月もたたないうちに歴代最高の移籍料で入団してきたミリートがいるから、今では3番目となっている。アビダルが入団してきた段階で一番の高額移籍料選手は、奇しくも同じフランス人選手であるクリスタンバールだ。ガスパー会長時代にレシャックに惚れられてやって来たクリスタンバールの移籍料は1670万ユーロだった。

「守備体制に入るときは100%ラテラル選手として、そして攻撃に参加するときには100%エストレーモ選手としてプレーできる自信がある。」
10代の半ばまでは左エストレーモとしてプレーしていたというアビダル。彼の守備能力の高さや攻撃参加のときの有効性は、これまでクラブ単位や国代表単位で彼と一緒にプレーしてきた仲間が共通して語ること。そして同じように誰もが共通して語るのは。彼のキャラクターの明るさだ。仲間からは“アビ”と呼ばれている彼は、常にジョークを言い放ってグループ内の雰囲気を明るくするスペシャリストだという。あの怖そうな顔をしたアビから何らかのジョークを言われたとして、果たしてイニエスタは笑うことができるだろうか?

バルサとは4年契約、違約金9000万ユーロ。そしてオリンピック・リヨンに支払われる移籍料1500万ユーロの支払い方法は次のようになっている。
・2007年7月01日・・・500万ユーロ
・2008年7月31日・・・500万ユーロ
・2009年7月31日・・・500万ユーロ
そして彼のバルサ在籍中にチャンピオンズ優勝を達成した場合は、ボーナスとしてさらに50万ユーロが支払われる。


トゥレ・ヤヤ
(07/08/17)

「ヤヤ・トゥレではなくトゥレ・ヤヤと呼んで欲しい。なぜならこれが生まれた時からの自分の姓名だから。」
トゥレ・ヤヤがバルサ入団記者会見の席上でこう語っている。18歳でアフリカを離れヨーロッパにきて以来、どこの国でもヤヤ・トゥレと呼ばれていた選手が、バルセロナにやって来ると同時に、本来の自分の呼び方に戻ることにした。

ヨーロッパ各国では(たぶん)例外なく、名前が先に来て苗字が後に来る。例えば日本で生まれ育った山田太郎君は、ヨーロッパに来るなりタロウ・ヤマダ君として呼ばれることになる。だが、トゥレ・ヤヤの生まれ育った国コスタ・デ・マルフィルは日本と同じように苗字が先に来て名前が後に来る。したがって山田太郎君はコスタ・デ・マルフィに行ってもヤマダ・タロウ君であり続ける。まあ、山田太郎君のことはどうでも良いとして、トゥレ・ヤヤはスペインに来て本来の自分の名前に戻ることを決意した。そしてそいうことにはまったくもってアバウトなラテン国スペインにおいては、何の問題ともならない。こうしてヨーロッパに渡ってきて以来6年間ヤヤ・トゥレだった男が、ピレネー山脈を越すことにより本来の自分の名前に戻った。メデタシ、メデタシ。

トゥレ・ヤヤは1983年5月13日にコスタ・デ・マルフィルで誕生している。そしてバルサに入団する前の“ヨーロッパ修行”を開始したのは彼が18歳の時だ。ベルギーのベベレンというクラブがヨーロッパ最初の修行クラブだった。このクラブでは2シーズン半ほどプレーし、70試合に出場している。その彼が目指した第二のクラブは兄のトゥレ・コロがプレーしているアーセナル。2004年1月、ベンゲル監督率いるアーセナルのテストを受けるトゥレ・ヤヤ。だが時期が悪かった。旬の時期を迎えているビエイラに加え、アーセナルはジルベルトを加入させたばかりだった。

イングランドがダメならウクライナがあるさ、そう思ったのかどうか、トゥレ・ヤヤはドネツクというクラブに入団する。寒さになんとか鍛えられたかと思ったベルギー生活だったが、ウクライナでは凍えるほどの寒さを経験する。1シーズン半の凍える寒さを経験し33試合に出場した彼は、燃えるような太陽を求めて、かどうか、今度はアテネにあるオリンピアコスに移籍。そしてリバルドと一緒に1年間だけプレーしたジプシー・ヤヤは、翌シーズンにはモナコに移籍。ここでも1シーズンだけのプレーとなっている。

トゥレ・ヤヤは今回バルサに入団するためにバルセロナに訪れたが、これは2度目のバルセロナ“訪問”となる。モナコの同僚である元バルサ選手ジェラールの兄の葬式に参列するためにバルセロナを訪れたのが最初だ。そのジェラールが語る。
「もう何か月も前からバルサというクラブや選手のこと、そしてバルセロナの街やレストランのことなどを聞きまくっていた。彼のバルサ入団は自分ことのように嬉しい。」
そう語るジェラールも奇しくもトゥレ・ヤヤと同じようにモナコを離れることになった。

これまで彼が在籍してきたクラブで、ライカーバルサが必要とする“4番”の位置でプレーしたことはない。常にドブレピボッテの一人として、あるいは左インテリオール選手としてプレーしてきている。チキやライカーが基本的に彼に要求するポジションは“4番”であろうから、彼にとっては初の経験と言って良い。
「ポジションに関しては別に問題ないと思っている。ただ、第二のパトリック・ビエイラと称されるのはあまり嬉しくない。彼は非常に良い選手であることは確かだが、彼は彼、そしてトゥレ・ヤヤはトゥレ・ヤヤであり、自分は自分なりの良さが発揮できれば良いと思う。」

バルサとは4年契約、違約金9000万ユーロ。そしてモナコに支払われる移籍料900万ユーロの支払い方法は次のようになっている。
・2007年7月15日・・・250万ユーロ
・2008年7月15日・・・250万ユーロ
・2009年7月15日・・・200万ユーロ
・2010年7月15日・・・200万ユーロ
そして彼のバルサ在籍中に獲得したタイトルに応じて、最高額400万ユーロのボーナスが支払われる。

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消えた!
(07/08/16)

あくまでも都合の良い真実を伝える“カタルーニャ2大バルサパンフレット”紙。ここは一つ、ウッウッウッ殿、切り捨て御免!


ティエリ・アンリ
(07/08/15)

「アンリを獲得するために、すべきことはすべてしたように思うこともあった。だがそれでも彼は決してバルサには来ないのではないか、そういう思いもあったことも確かだ。しかし幸運にも、ついに我々の目的が達成することができた。」
我らが金庫番フェラン・ソリアーノがそう回想する。アンリ獲得作戦はバルサと話し合う用意があるとアンリ側関係者が伝えてきた日から、今シーズンのアーセナルのプレゼンテーションがおこなわれた日の30分前までの期間にわたっておこなわれている。ソリアーノが“ラ・バンガルディア”というメディアをとおして回想するアンリ獲得作戦。

●5月24日
アンリ側関係者からクラブ宛に“バルサ入団の意思あり”というアンリの思いを伝えてきたのは、チャンピオンズ決勝戦がおこなわれる日のかなり前だった。私は早速ベンゲルに連絡をとり、移籍交渉の開始を促した。しかしベンゲルにはアンリを手放す意思はないということで、交渉そのものに応じないという返事が返ってきた。だが、いずれにしても我々はアテネでのチャンピオンズ決勝戦で顔を合わせる機会がある予定だったので、その時に電話ではなく直接話し合いをもとうと約束した。

私とチキ・ベギリスタイン、そしてベンゲルと共に朝食をとりながら話し合いをしたのが、チャンピオンズ決勝戦の翌日5月24日。だがベンゲルの意思は電話で話した時と変わらず、アンリを手放す気持ちはまったくないということだった。したがって彼としては交渉の余地なしということであり、我々としてはアンリ獲得の進展はまったく見られぬままバルセロナに戻るという、言ってみれば獲得作戦失敗というイメージだった。だが、この日から約1週間後にアンリ自らベンゲルと話し合いを持ち、バルサ移籍の強い希望を伝えることになる。その情報が我々のもとに伝わってきて以来、私は執拗にベンゲルとの電話による話し合いを続けていた。電話を切るときはいつも同じ結論にたっしていた。それは、彼には交渉に応じる気持ちはないということだった。だが、ある日、執拗なアタックが功を奏したのか、ついに話し合いのチャンスが訪れた。
「それでは一度だけ私の自宅でお会いしましょう。」
我々にとって待望の約束の日は6月18日と決まった。

●6月18日
ヒースロー空港には我々(チキと私)をベンゲル宅に送ってくれる車が待っていた。ベンゲル宅にはアーセナル側交渉人としてフライアー氏も待機していた。3時間にわたる話し合いで最終的に移籍料に触れるところまで来た。だが、それでもこの交渉は我々にとって失敗と総括するに至ることになる。なぜならあまりにもお互いの示す移籍料に差がありすぎたからだ。我々が示したオファー額が1800万ユーロだったにもかかわらず、彼らは3500万ユーロをスタートとして話し合いに応じるということだったからだ。アンリ獲得の可能性は限りなく遠いと感じた話し合いだった。

●6月21日
アーセナルクラブ理事会が開かれる日だった。我々はその理事会が開かれる前にアーセナル宛にメールを送り、我々のオファーを再検討するように要請した。彼らが送り返してきたメールには“ノー”と書かれていた。チキと私は気持ちを入れかえて、翌日におこなわれるキブ獲得交渉に向けての準備にかかった。すでにローマ行きのエアーチケットも購入していた。だが、予期せぬ出来事がおこった。この日の23時、アーセナルから連絡が入る。新しいオファーを出す気があるかどうか、そういう内容だった。夜中の1時、バルサのクラブ弁護士オリオル・ラフォイスが最初の1800万ユーロというものに少し上乗せした新しいオファー額のメールをアーセナルに送る。そしてそのオファーに関する話し合いがもたれることに決まったのは、まさに深夜のことだった。

●6月22日
ローマ行きをキャンセルしてロンドンに飛ぶ。バルセロナ・エル・プラット空港を出発したのは朝の7時。チキはローマへと飛ばなければならないので、今回は私一人だけが交渉役となってのロンドン行きだ。前回のロンドン行きではクラブの車が待っていたが、今回はそれをお断りし地下鉄を使うことにした。アンリ移籍をめぐってイングランドメディアが目を光らせているので、なるべく目立たない方法を選んだ。フライアー氏との話し合いは13時まで続き、どうにかこうにか基本的な合意まで到達することができた。移籍料の基本額は2400万ユーロ、これに各種のボーナスを含めることになるが、いずれにしても口頭で決めたことを書類にするまでに時間がかかるので、その時間を利用してアンリと直接会い、具体的な交渉に入ることにする。アーセナルからもらった“交渉許可証”を持参しアンリと交渉。そして15時、彼との交渉はあっと言う間に終了。それにしてもアンリという選手は想像していたのとだいぶ違っていた。まだフットボール界に足を踏み入れた若者のようにこの移籍話に興奮しているようで、とてもクラック選手のそれというイメージではなかった。彼の希望と我々の希望が一致し、アンリ、バルサ入団に大前進。だが、まだ基本的な合意にしか過ぎないのも確かなことだ。まだすべての点で合意に達し契約書にサインがされたわけではない。

●6月25日
23日、24日、そして25日と、こまかい交渉が続く。この交渉は主に両クラブの弁護士たちの仕事であり、移籍料の支払い方法や税金関係などの専門的なことが、具体的に書類化され、この書類にサインがされることによって最終的に終わりを見ることになる。そしてその最終段階がやってきたのが、6月25日、アーセナルのプレゼンテーションがおこなわれる30分前だった。この瞬間、アンリがついに正式にバルサの選手となった。

バルサとは4年契約、そしてアーセナルに支払われる移籍料2400万ユーロの支払い方法は次のようになっている。
・2008年8月・・・1200万ユーロ
・2009年8月・・・1200万ユーロ
驚くことに、彼が移籍した年である2007年にはいっさいの支払いがない。つまり、なんだ、今シーズンはタダだ。


チキは語るなり
(07/08/13)

もし昨シーズ、リーグ優勝でもしていたら、7000万ユーロも使った今回の補強はなかったのか?

タイトルを獲得していたとしても同じような補強作戦をしていただろう。新しいシーズンの補強作戦は前のシーズンすべてを総括しておこなわれるべきであり、タイトル獲得の有無とはまったく関係ない。ここ2シーズンにわたって少数の補強しかしてこなかったのは、主力となる20人前後の選手に信頼を置いてきたからであり、ドラマチックな変化が必要なかったからだ。だが、今シーズンは、スタメン選手として起用できる新しい選手の補強が必要だという総括に至った。

今でもタムードのゴールが脳裏に焼き付いているか?

タムードのゴールシーンを思い出すたびに、ベティス戦のソビスのゴールシーンが回想される。そしてこの二つのゴールがさらに4−0のヘタフェ戦の試合を思い出させてくれる。前半の2−0というスコアーに対してリアクションできない後半の試合展開を見た瞬間から、我々の抱える深刻な問題は、シーズンが終了するまで解消されないのではないかと予想した。そして、残念ながらそのとおりになってしまった。

しかし、どうしてそのような状況になってしまったのか?

シーズンごとに選手たちが“豊か”になってしまった、とでも表現すればよいのか・・・。経済的なという意味ではなく、タイトルを獲得し続けることによって勝負に対する飢えが癒され、一人一人の選手が必要以上の自信を持ってしまった。いや、それは選手たちだけではなく、自分も含めてそうなってしまった。こんなに良い選手がそろい、チームそのものも一つにまとまっている。そう思っていたからチーム状態が悪いときにも自分にこう言い聞かせてしまった。
「な〜に、シーズンが終わってみれば、我々が優勝しているだろう。」
それはエトーとメッシーが負傷中の時もそうだった。彼らさえ戻ってくればこれまでのバルサらしい進撃が開始されるだろう、と。だが、それは間違いだった。

同じような反省がクラブ首脳陣、あなた、ライカー監督、そして少ないながらも何人かの選手がおこなっている。だが、チーム総体として見た場合、しっかりと総括し反省されているのだろうか?

それはこれからの各選手のリアクションを見てみないことにはわからない。果たして悪いシーズンを過ごしてしまったことを本当に反省しているのかどうか、“反省の弁”を語った選手たちは、それをリアクションとしてグラウンドの中で示すことができるかどうか、そう、つまりすべて選手たちのリアクションを見てみなければわからない。選手一人一人の実力はもう誰もが知っていることだ。だが問題は、再びかつてあった勝負に対する飢えが戻ってくるか、毎日の練習に100%の意欲で参加してくるか、チームを構成するすべての選手たちが一つとなってタイトル獲得という目標に向かえるかどうか、それがわかるのにはまだ時間が必要だ。唯一はっきりしていることは、そういう意欲が見られない選手がいたとしたら、我々指導者のリアクションは以前より早いだろうということだ。

ミリートという選手の補強などをみる限り、グランドの中でのリーダーシップもさることながら、それ以外の場所でのリーダーシップの必要性を考えているように感じられるが?

そう、それはもちろん考慮に入れている。チームをまとめる能力のある選手が必要なことは明らかだからだ。だが、それでも、最終的には選手一人一人が自覚しなければどうにもならないこともわかっている。繰り返すことになるが、一人一人の選手の実力には何の問題もないし、すべてバルサというクラブに相応しい選手だ。だが、何人かの選手の“行為”そのものに問題があったとしたなら、反省するだけではなく、具体的にリアクションを見せなければならない。本当に昨シーズンの不振はフラストレーションのたまるものだった。“バルサの自滅”とか“バルサ自らタイト放棄”とかいうようなフットボール関係者やメディアやファンの人々の言葉を聞く度に、どうしようもなく心がズキズキと痛む。こんなことは二度と繰り返してはならない。

その反省から“内部規律’問題が生まれてくる?

この3年間、誰一人として経済的な処罰を受けた選手がいないことは確かだ。もちろん我々が選手たちに要求してきたことは特別なことでもなんでもない。例えば、試合前夜には自宅で食事をとれとか、試合日2日前には夜遊びするなとか、どこのクラブ内にもある常識的なことに過ぎない。プロ選手として普通に自己管理さえすれば、毎日の練習の効果が上がることぐらい誰でも知っていることだろう。いずれにしても、今シーズンはそこらへんのコントロールが厳しくなるだろう。

これまで4年間にわたってライカーの人柄を見てきた限り、彼が“強権”を発するなどとても想像できない。彼のやり方に変化を望むと言うことか?

ライカーがライカーらしく振る舞ってきたからこそ、これまでの成功があるわけで、我々が彼に変化を望むということはない。ただ彼にしても昨シーズンの不甲斐なさに関しては責任を感じているわけで、それなりのリアクションがあることは間違いないと思う。もちろん彼はいわゆる“警官タイプ”ではないから、グラウンド以外での選手の行動を見張るという意味ではなく、選手たちに対し、これまで以上に内容の濃い練習を用意するかも知れない。

しかし、ライカーに関しては、昨シーズン中でも続投するのかしないのかというような議論が常になされていたが?

今だから言えることだが、リーグ2連勝・チャンピオンズ制覇を達成したあと、彼は精神的にも肉体的にもボロボロになっていたんだ。何というか、話し合いをしていてもまるでコンニャクのようにというか、それまでの彼らしい存在感がまったくなかった。シーズンが終了し、すべての緊張感とエネルギーを使い果たしてしまったのだろう。だが、不思議なことに今はまったく逆なんだ。いや、厳密にいえばヘタフェ戦以来、かつてのライカーが戻ってきたと言った方が良い。あの歴史的な敗戦以来、彼のエネルギーが戻ってきたようだ。そして幸いなことに、そのエネルギーは今でもライカーを包んでいる。これまで以上にやる気満々のライカーというイメージがある。

それでも監督のライカーに新たな問題が生じている。4人のデランテロクラック、つまりロナルディーニョ、エトー、メッシー、アンリという、どこのクラブでも獲得にヨダレを流しそうなこの4人をどのように使っていくのか?

思い出して欲しい。昨シーズンもアンリ獲得を希望した我々だ。残念ながらそれは実現しなかったが、ライカーの手腕を信頼しきっているからこそ、彼の獲得を狙った。もし監督がライカーではなく他の人物だったら、アンリ獲得は狙わなかったかも知れない。ライカーには彼らをうまく起用していく能力が十分すぎるほどあると信じている。しかもだ、今シーズンのリーグ日程はキチガイ沙汰だ。シーズンを通じて週中に試合がないのは3回しかない。しかも冬になればエトーはしばらくいなくなるし、カード制裁や望まない負傷だってあるかも知れない。

そうは言っても現実的にライカーは彼らをどう起用していくのか?

常識的には彼らの中から3人が同時にプレーすることになるだろうが、状況に応じては4人一緒のケースも出てくるだろうし、2人しかプレーしていない局面も登場するかも知れない。だが、いずれにしてもそれはたいした問題ではないはずだ。最も重要な問題は、一つのチームとしてまとまるかどうか、それだけが重要なことであって、誰が誰と一緒にプレーするかということではない。もし出場できないことで不満を感じる選手がでてきたとしたら、その選手に望むことは徹底的なプロ精神であり、監督の決断に対する絶対の服従だ。フットボールは個人競技ではなくグループ競技であることを忘れてはならない。

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内部規律(下)
(07/08/11)

6.クラブと関係をもたない人物が、クラブ専用施設に入ることは禁止されている。選手たちの神聖な場所であるロッカールームはもちろん、他のクラブ専用施設に関しても監督や関係者の許可なしに、“一般人”が入室することはできない。

・規律違反見っけ!
すでにクラブから離れていたラポルタの義兄弟であるファシスト・エチェバリアが、事あるごとにクラブ専用施設やロッカールームに忍び込んでいたのを、多くの職員に目撃されている。これを追求されたラポルタは、3月からファシストのクラブ内出入りを禁止していると語っている。

7.バルセロナのホテルであれ、遠征先のホテルであれ、選手たちの利用している部屋に、外部の人間を招待することは許されない。それは家族であろうが友人たちであろうが同じように、特別の許可なしに入室することは禁止されている。

・規律違反見っけ!
これまた、3月まではファシスト・エチェバリアが、自由に地元や遠征先のホテルに出入りしているのを目撃されている。

8.何らかの理由で練習に参加できない場合は、練習開始時間前にできる限り早くクラブに連絡すること。また、すべての選手は自宅の電話番号と携帯の番号をクラブに通告し、いつでもコンタクトがとれる状態としていなければならない。

・規律違反見っけ!
練習開始時間前に不参加を申し出ることもせず、その後連続5日間にもわたって練習不参加となったモッタ。また、日常的にジムの管理人と化したロナルディーニョは、シーズンをとおして三分の一の回数しか合同練習に参加してきていない。また、どこのクラブよりも長いクリスマス休暇をとりながら、ロナルディーニョ、マルケス、デコの三人が最初の練習日に参加していない。

9.すべての選手は約束の練習開始時間より10分前には、練習場に集合していなければならない。監督が前もって決めた“自主トレーニング”以外のすべての練習に、選手は参加することが義務づけられているが、同じように開始時間10分前にグランドに姿をあらわすことも義務づけられている。

・規律違反見っけ!
カピタン・プジョーをはじめ、この規則を守った選手はシーズンをとおして1人もいない。

10.練習終了後には最低でも2人の選手がメディアの前に登場し、彼らの質問に答えることが義務づけられている。メディア担当のクラブ責任者が、選手二人一組のローテーションを組み、選手はそれに従わなければならない。また、負傷中の選手は例外となる。

・規律違反見っけ!
エトー、ロナルディーニョの二人は、何か月にもわたってメディアの前での公式発言を拒否している。もちろん、練習後の選手記者会見にも何か月にもわたって出席していない。

11.これらの内部規律を犯した選手に対し、監督あるいはクラブ関係者が何らかの罰則を与えることは、彼らの義務と認識されなければならない。すべての選手が内部規律を守ることが義務づけられているように、指導者側にも選手に対し罰則を与えることが義務とされている。

・規律違反見っけ!
世間に知られることとなったこれだけの規律違反がありながら、誰一人として、そう、誰一人として、処分を受けた選手はいない。乱れてしまったグループを潤滑な状態に戻すために何らかの処分が必要であり、その義務を怠った、あるいは“処分を与えない”という間違った方針をだした人々(ライカー監督をはじめとするコーチングスタッフ及びクラブ理事会)にも問題があったということになる。ラポルタを頭とするすべてのクラブ理事会構成員、ライカー監督を頭とするすべてのコーチングスタッフ、そしてチームカピタンであるプジョーを筆頭にすべての選手たち、深く、深く、ひたすら深く、反省すべし。


内部規律(上)
(07/08/10)

「プロ精神に欠けた選手が何人かいたにもかかわらず、その批判されるべきおこないに我々が気がつくのが遅かったことを反省している。これからはクラブ内で決められた内部規律どおり、厳しく彼らを指導していくつもりだ。」
シーズン終了後、無冠(スーペルコパ優勝をタイトル獲得とするのは惨めすぎるし、カタルーニャカップなんぞは問題外)に終わったシーズンを振り返りこのように反省の弁を語る我らが会長ラポルタ。毎週必ずコーチングスタッフからレジュメを受け取っているクラブ最高責任者が、選手間で何が起こっているのか知らなかったというのは、もちろんシャレにもならない嘘だ。もし本当にチーム内でおこっていることを知らなかったとしたら、それは会長として失格であり、辞任ものだと言って良い。真面目なアイスランド人グジョンセンや、神に一番近い存在でありたいと願うエドゥミルソンなどが、すでにシーズン中に問題提起をおこなっていることも忘れてはいけない。

ラポルタの語る内部規律というのは、すでにクライフの監督時代からあるものだ。チーム内の雰囲気が悪くなったり、チーム成績が芳しくないと必ずメディアに登場する内部規律条項。あまりにも常識的過ぎて面白みに欠けるものだが、だいたい次のような内容のものだ。

1.プライベートな時間であってもプロ選手としての自覚を持ち、常識外れな行動はとらないこと。タバコは吸わないこと、ドラッグはやらないこと、飲酒はできる限り少なめにすること。フットボールの超エリート選手として常に健康に留意すること。

・規律違反見っけ!
バルサ選手専用のディスコというのはバルセロナにはない。したがって、RやDやMなどが夜な夜な、とあるバルセロナやカステルデフェルスのディスコで遊びほうけ、そのうちの何人かが白い煙を汽車ぽっぽのようにプカプカさせ、しかも泥酔しているのを多くの人々が目撃している。

2.選手にとって監督の命令は絶対のものとしなければならない。練習中、試合中を問わず、選手たちは監督の命令に逆らうことは許されない。

・規律違反見っけ!
パンプローナの試合で6分間プレーし負傷後初復帰を果たしたエトーは、1週間後の次の試合で試合終了間際の交代出場を拒否。これは監督の命令に対する明らかな反逆行為。

3.ロッカールーム内で起きたことを外部に、特にメディアに漏らすことは避けなければならない。選手とコーチングスタッフしか入室できないローカールームでの出来事は、決して外部に漏らすことなく内部に留めておかなければならない。

・規律違反見っけ!
ビラフランカでおこなわれたスポンサープロモーションで、エトーはロナルディーニョをはじめとする同僚批判や監督批判までを、メディアを前にしておこなう。「バカで嘘つきな監督」という発言までして問題となった。そしてさらに恐れを知らぬこの選手は、マドリッドのラジオ局の深夜番組に出席し「ジャーナリストの彼女に、ベンチ内のことをいろいろしゃべっている選手がいる」と暗にイニエスタ批判をしただけではなく、メディアにしゃべってはいけないロッカールーム内での秘密事をペラペラとやりまくった。

4.監督からの許可なしに、選手がクラブ理事会の人々と直接会って何らかの問題を相談することは許されない。何らかの問題を抱えている選手、それが個人的なことであれ、あるいは選手間同士のことであれ、最初に相談する相手はまずチームのカピタン、次が監督、そして監督の許可が下りて初めて背広組ということになる。

・規律違反見っけ!
試合出場拒否、ビラフランカでの問題発言をぶっ放ったエトーはラポルタと直接話し合いの場を持ち、その場で醜い言い訳をしている。バカで嘘つきな監督の許可をとらず会長と話し合いを持ったエトーもさることながら、それを受け入れたラポルタも違反行為を犯したことになる。

5.どんなに遅くても、選手たちは夜中の1時までには帰宅していなければならない。また遠征先でのホテル滞在の場合は、自室には24時までに戻ることが義務づけられている。

・規律違反見っけ!
モナコで開催されたスーペルコパ・デ・エウロッパの試合前日、この街に詳しいM選手をはじめとして、D選手やM選手などが朝方まで遊びほうけていたのをメディアが目撃している。


モッタの裏切り
(07/08/08)

バルサB選手としてスタートした1999年、細身ながらもタッパがあり、テクニック的にはやはりブラジル人であり、インテリオール選手としてはやたらとゴールに絡む素質があり、そして何よりも左足から放たれる強烈なシュートが魅力的、それが初めて見たティアゴ・モッタという選手への印象だった。そして次のシーズンで見た彼は、フィジカル的にもかなり強くなり、相手選手の厳しいあたりにもじゅうぶん耐えられる選手として成長していた。

ラ・マシアから誕生した他の選手と比べると、明らかに異彩を放っていた。アルテッタ、チャビ、ババンジーダというようなテクニックはありながらも小柄で、しかもファイトが外にでることのない選手が多かったバルサBチームにあって、19歳という若さで、すでに本格的なセントロカンピスタとしての素質を誰よりも持っている選手だった。アルテッタに負けないワンタッチフットボールを展開するテクニックを持ち、チャビにも劣らない状況判断の早さを可能にするインテリジェンスを持ち、ガブリにも負けないゴールに絡むプレー能力を持ち、そしてバルサBにあっては誰も可能としなかった高いボールを処理する能力と、ピンチと感じた状況では、容赦ないファールを試み相手の攻撃を止めるずるがしこさを持っていた。そう、モッタはセントロカンピスタとして必要とされるすべてのものを持っていた選手と言っても大げさではなかった。

そしてミニエスタディを卒業。カンプノウではバンガール、セラフェレール、レシャック、アンティック、ライカーと、これらのすべての監督から厚い信頼を勝ち取っている。そしてこれらの監督の信頼に応えることなく、例外なくキッチリと裏切ってきた律儀な選手でもある。

ここ10年間でスペインが生んだ最高のデランテロは、ディエゴ・トリスタンだと思っている。モッタが完璧なセントロカンピスタとしての才能を持っていたように、トリスタンもまたバンバステンに近いデランテロとしての才能を持っていた選手だった。フィジカル的に強く、ヘディング能力にも優れ、相手のマークを外す天性の能力を持ち、両足どちらからも強烈なシュートを放つ才能を持ち、そして何よりもゴールと合い言葉の選手だった。セントロカンピスタとデランテロというポジションの違いがあっても、彼らには共通した一つのことがある。それは、プロ選手としての自覚が見られない乱れた日常生活からくる数々のスキャンダルな噂だ。エリート中のエリートフットボール選手として、絶対必要なプロ精神というものを持ち合わせていない人たちだった。フットボール選手として、24時間100%フットボールに打ち込む能力に欠けており、現実的に2人とも多くのスキャンダルな話題を提供している、が、ここではそれに触れない。

長いあいだ見てきたファンにとっとは、まったくもってフラストレーションがたまる選手と言える。これほど幸運に恵まれ、これほど甘やかされ、これほどチャンスを与えられ、これほどファンから期待されたカンテラ育ちの選手は少ない。モッタは誰よりもクラブ関係者に感謝し、彼を指揮してきたすべてのコーチングスタッフに感謝し、彼を甘やかし続けてきたメディアに感謝し、そして彼を支持してきた多くのバルセロニスタに感謝しなければならない立場にある。チキがマヌケな発言をしたからと言って、それを批判してはいけない唯一のバルサ選手でもある。それにもかかわらず平然と批判するところが彼の甘さであり、モッタがモッタである由縁だ。いくら感謝してもしきれないクラブに対し、自由契約にしろ!と要求する発想そのものが、この選手の甘ったれ精神を象徴している。

もしフットボール選手として、フットボールを最優先する生活を自己管理することができるようになれば、少なくとも7年間前後は第一線でやっていける選手。だが、その場所はバルサではない。クラブ関係者を裏切り、コーチングスタッフを裏切り、そしてもちろんバルセロニスタを見事に裏切り続けてくれた彼には、もうバルサに居場所はない。

と言うわけで、多くのバルセロニスタがまだ名も知らない頃から、“明日のキラキラ星”として個人的に期待していた選手でありながら、今となっては同情の余地もなく、お元気で、そしてアディオス、モッタ。


アジアツアー
(07/08/06)

「クラブ側と選手同士が話し合って決めるというような事柄はいくつかある。例えば、プレステージの開始日や冬休みの期間、あるいは選手に支払われる各種ボーナスの支払額や支払い方法といったもの。だが、シーズン終了後やプレステージ期間での各地試合興業は、選手たちの意見とは無関係に、クラブの方針どおりに遂行されなければならない。これだけは譲れない項目となっている。」
アメリカやアジアでおこなわれるツアーは、クラブにとって“絶対必要”なものであり、選手間にどんな不満が生まれたとしても、クラブ側に妥協の余地はないと言い切る金庫番フェラン・ソリアーノ。今年の春だったか、“ビジネス・リサーチ・インスティトゥート”という組織が主催したフットボールビジネスに関する講演会でこう語っている。

と言うわけで、プレステージ期間を利用してのアメリカツアー、1年に1回、あるいは2年に1回のアジアツアーは、ラポルタ政権が誕生してから“絶対必要”な催し物となっている。相手チームがどこであれ(と言っても、日本ではいつも同じチームのような気がするが・・・)、スタジアムはほぼ満員になることが保証されているし、クラブに支払われる90分間労働のギャラも中途半端なものではない。だが、それらの収入よりも大事なことがあると語るソリアーノ。
「バルサマークを日本を中心としたアジアに深く浸透させること。その最も効果的な方法は現地におもむくこと。バルサという存在をファンの前に登場させることが最も効果的であり、確実にマーケティング効果が発生することになる。」

さらに続ける我らが金庫番。
「ビッグクラブと呼ばれるフットボールクラブにとって、将来そのクラブ運営のカギを握るのは、アメリカとアジアマーケットと言って良い。例えば、ここ何年かのチャンピオンズ視聴率の伸びを見てみると、ヨーロッパ各国間では8%と伸び悩んでいるのに対し、アジア各国では254%と驚異的な伸びを見せている。もちろんリーグ戦視聴率も大きな伸びを見せている。そして、我々が特に注目しているのは日本マーケットだ。バルサという存在が日本人スポーツファンにとって重要な要素になること、それが今後10年間の我々の目標の一つとなると言ってもおおげさではない。」
フムフム、日本市場もずいぶんと気に入れられたものだわい。

確かに金庫番ソリアーノを良い気分にさせる材料は多くあるようだ。毎年コロコロとデザインが変わるユニフォームも、“本物”を買う人が多いだろうし、試合を開催すればほぼ間違いなくチケットは売りきれとなる。現地業者のビジネスとはいえ、“ソシオ入会公式受付窓口”なんぞというものがあるのは日本だけであり、そのせいかソシオ数は外国では一番となっている。さらに今回は、わずか4、5日の練習でありながら参加費10万円強もする、ユニセフもビックリの“バルサ少年用フットボールスクール”とか何とかいうものに、大勢の子供たちが参加してきているという。豊かなり日本。エグイ商売をするバルサと現地業者。いずれにしても、マーケティング市場としては確かに魅力的だ。

スコットランドで、2週間も3週間もプレステージをおこなったところで、“バルサマーク”は浸透しないし拡大もしない。ジダーンやベッカムがいなくなったことで、ツアー価値が下がってしまったレアル・マドリの例から、ロナルディーニョやアンリがいるうちに大いにツアーを展開して、“バルサマーク”を浸透させたいという気持ちも理解できないことではない。それでも、背広組とユニフォーム組の思いはもちろん異なる。トゥランやサンブロッタが今回のアジア遠征を批判しているし、彼らにしてみたらバルセロナから移動時間がかからず、しかも夏だというのに涼しいスコットランドで合宿をしていたほうが良いに決まっている。

選手や監督、つまりユニフォーム組にとって、プレステージが成功するか失敗するかは、“バルサマーク”拡張度とは無関係に、その本来の目的である体作りをいかに効率的におこなえるかにかかってくる。そしてこの問題を誰よりも知り尽くしている専門家がフィジカルトレーナーのパコ・セイルロだろう。

スペイン国内のクラブだけではなく、ヨーロッパ各国のクラブ間でも“バルサにパコ・セイルロあり”と、その名を知られているフィジカルトレーナー。その彼の著書の中で、理想的なシーズンをおくるための三段階のステップとして、次のように書いている。
「4週間から8週間のプレステージが最初のステップ。もしギリギリ4週間前後の準備期間しかない場合は、1日2回のフィジカルトレーニングをおこなうのが理想的だろう。次のステップはクリスマス前までのシーズン中におこなうこととして、火曜日と水曜日には午前と午後のフィジカルトレーニングをおこなうこと。そして木曜日と金曜日に週末の試合に向けて、フィジカル的にトップ状態にするための練習をおこなうこと。そして3つ目のステップはクリスマス休暇を利用してのミニステージをおこなうことで、春先に向けてのエネルギー補給を可能にすること。」

リーグ二連覇、チャンピオンズ制覇を果たしたあと、ムンディアルに参加したバルサの多くの選手は、足並みがそろうことなくプレステージに参加。精神的な疲労や肉体的な疲労が蓄積されたまま、満足な練習をする前に、親善試合出場を義務づけられた選手も何人かいたし、2日に一度の深夜移動、それも時差があるところへの移動プランも、選手にとっては大きなマイナス面となった昨シーズンのプレステージ。だが、今シーズンは期待通りの準備が、少なくとも昨シーズンよりは可能となっているとセイルロは語る。
「ロナルディーニョが舌を出してハァ〜ハァ〜するような風景がこのプレステージではたびたび見られた。今シーズンの彼には期待して良い。」

今回のアジアツアーは約1週間。彼らがアジアから帰国し、すべての選手がそろってから本格的なプレステージがいよいよ開始される。

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バルサインフェリオールカテゴリー(4)
(07/08/04)

最初がセスク・ファブレガス(アーセナル)、次がジェラール・ピケ(マンチェスター)、三番目がフラン・メリダ(アーセナル)、そして最新ドロ事件主役がダニ・パチェコ(リバプール)。さらにカルロス・テロンやガイ・アシュリンといったところへも、しっかりと魔の手は伸びている。いずれにしてもここ4年間で4人のバルサ選手がクラブを去り、そしてそのすべてが“明日のキラキラ星選手”であることが悔しい。

だが、犠牲者となっているのはバルサだけではない。この2年間で、スペインクラブに在籍していた16歳前後の多くの将来ある若者が、ドーバー海峡をすでにわたっている。At.マドリのルイス・ボルハ(グラスゴー・レンジャース)、エスパニョールのセルヒオ・テヘラ(チェルシー)、ビルバオのユリ・ベルチチェ(トッテンハム)、同じくビルバオのミケル・サンホセ(リバプール)、レイダのミキ・ルケ(リバプール)、マラガのフランシス・ドゥラン(リバプール)、セビージャのアヤラ(リバプール)、メディアに三行記事程度で触れられた“移籍選手”だけでもこれだけの数が見られることになる。したがって、バルサの若手選手がイングランドの魔の手にかかるたびに、クラブ理事会やカンテラ責任者(特に背広組責任者であるアルベルト・ペリンと現場責任者であるアレサンコ)の怠慢とするのは、それが一つの原因となっていると考えられるとしても、すべて彼らの責任とするのはかわいそうだ。

かつてカルラス・レシャックが次のように語っていたのを思い出す。
「我々がカンテラ選手の面倒を見ていた時代と今では、まったく事情が変わってきている。我々の時代にはフットボール的な将来のことに関しては、少年と直に話し合いがおこなわれていた。少年の両親と話し合うことは、その少年の生活自体に問題が生じたとき、つまりフットボールの世界と離れたところで問題が起きたときのみだった。だが、今はまったく事情が異なってきている。14歳の息子の両親が選手代理人となり、その両親にプロの代理人がついている時代だ。例えば、イングランドのクラブが、ある少年の獲得に興味を抱くとする。彼らはまず両親に連絡を取り、両親はプロの代理人を呼んで相談することになる。16歳前後の少年に年俸30万、40万、50万ユーロのオファーがやって来る。将来性が高いと評価されている選手であれば、それなりの年俸をバルサからもらっているだろうが、もちろんそんな額とは比べものにならない低いものだ。両親が稼いでいる年俸とも比較にならないほどの額となるし、プロの代理人してみれば少年がクラブを変わることで仕事になる。少年にしてもそんな想像外の年俸をもらうことで、念願のプロ選手となったような気がしてしまうのも理解できることだ。したがって、もし彼らを引き留めようと思うのなら、イングランドオファーと同額かそれに近い額の年俸を提供しなければならないことになる。だが、現実的に、フベニルカテゴリーやバルサBチームで年俸40万ユーロ前後の選手がゴロゴロしているなんて想像できないことだ。いや、間違ってもそんなことをしてはいけないと思う。」

16歳未満の選手を獲得したいのなら“両親の引っ越し・住居変更”さえおこなえば、それまで在籍していたクラブに移籍料など支払う必要はない。たかが知れた額の“養育費”なるものを元在籍クラブに財布から出して支払えば済むことだ。16歳を過ぎたからといってすべての選手に高額なプロ契約を結ぶことはできない。例えば、昨シーズンのカデッテAカテゴリーを構成した選手の中で、イングランドからのオファーを受けた選手が少なくても6人はいる。ポルテロのアレックス、デフェンサのテロンとブランチャー、セントロカンピスタのティアゴ、そしてデランテロのガイとパチェコ、この6人。バルサが彼らすべてに年俸30万とか40万ユーロを支払うことは、それは道義的にも経済的にもできない。とんでもない年俸額のフベニルチームができてしまう。

それではこの大量といってもいい数の“ドーバー海峡越え”を止めるにはどうすればよいのか、と疑問を投げかけても、素人にはたいした答えは見つからない。UEFAがこれらの移籍を禁じる何らかの法律を作成するか、あるいはグラブ同士が紳士協定を結ぶことぐらいしか浮かばない。

カンテラ選手に“チームカラー”とか“クラブ愛”を求める時代じゃあないことは確かだ。ポンドやユーロの魅力はすでにそれらを超えている。この世に誕生してきた瞬間に両親によってソシオ手続きが済まされ、自らも憧れのバルサに入団してプレーしていたセスクやピケというカタラン人が、美味しいオファーを懐に入れてクラブを離れるぐらいだから、わずか4年前にマラガからやって来たパチェコに“クラブ愛”が足りないなどと批判することはできない。

気分が少少々重くなる話だが、それでも不思議なもので、この手の話はもう慣れてきた。もう免疫じゅうぶんの体となっている。クラブ内で冷や飯を食わされていたというわけではなく、その逆に、今シーズンはフベニルAチーム、あるいはシーズン中にはバルサBでのプレーも可能だったパチェコ。それでも、クラブを出たいというのならそれはそれで仕方がない。16歳にして30万ユーロの年収、魅力っちゃあ魅力だ。


バルサインフェリオールカテゴリー(3)
(07/08/03)

今シーズンのバルサインフェリオールカテゴリーの最大にして歴史的な特徴は、バルサCという20年以上続いたチームが消滅したことだろう。このバルサCチーム消滅ということに関しても、クラブ理事会はソシオの前に出てきて釈明をいっさいおこなっていない。アモール解任と同じように、クラブオフィシャルページでの数行の説明で片づけている。ただ。ミリートの入団記者会見で一人のジャーナリストに、執拗にバルサC消滅の事実に関して質問されたラポルタは、次のように説明している。

「バルサCというのは非常に中途半端なカテゴリーだとこれまで認識していたので、今回のバルサB降格という事実を前にして、消滅させるのが一番良い方法だという結論に達した。」

ラ・マシアHPやこのコーナーでも何回か触れてきているように、確かにバルサCは中途半端なチームでありカテゴリーでもある。それは間違いないが、ラポルタ政権が誕生してきてからのこの4年間で、少しも改善の努力がされなかったことも確かだ。例えば昨シーズン、カンテラ最高責任者アレサンコは、何を思ったか一チーム分以上の数の選手を新加入させ、見事に失敗している。どうにかこうにかカテゴリーを維持できたのは、すべてそれまでいた選手か、あるいはフベニルカテゴリーから上がってきたカンテラ選手のおかげだった。

いずれにしても、これ幸いにという感じの“合理化政策”的な臭いがプンプンと臭ってくる。例えば、“売り上げ効果”がまったく見られなかった自転車部門のいつの間にかの消滅や、予算切りつめのためとしか思えないアルゼンチンクラブ・アルセナルとのいつの間にかの提携消滅、そして今シーズンからバルサ女子バスケ部門の消滅。これらの“消滅”とバルサCの消滅が無関係とはどうしても思えない。マーケティング部門拡張政策をとっているクラブの宿命、と、単純に言ってしまえばそうなるかも知れない。

理由がどうであれ、バルサCは消滅してしまった。バルサB三部リーグ降格とこのバルサC消滅という事実が、多くのカンテラ選手の放出という現象を生み出していく。ベンジャミンやアレビン、インファンティルカテゴリーは別として、カデッテBチームからバルサBチームまで、これらの6つのチームを構成する選手たちは総勢約130人前後。そしてバルサB降格・バルサC消滅という事実が、だいたい50人前後の選手放出を予想させることになる。つまり昨シーズンこの6つのカテゴリーでプレーしていた選手の半分近くがクラブを離れることになる。その理由はいろいろだ。

一つチームが減ったわけだから、当然ながら22人前後の一チーム分の選手が放出されることになる。レンタルされていた選手は戻り場所がなくなったことで、そのまま放出選手として扱われることになる。昨シーズン、バルサBチームを構成した選手たちの何人かは、三部リーグ(実質4部リーグ)などではプレーしたくないという選手も出てくる。フベニルAチームを構成し、すでに19歳を過ぎようとしている選手は、もうこのカテゴリーでプレーできない。したがってバルサBに招集されない選手たちは、クラブを去ることを余儀なくされる。フベニルAからバルサCチームに昇格する予定だった選手たちは、今シーズンも再びこのカテゴリーに残ることになり、それは同時にフベニルB選手にも影響を与えることになる。フベニルBに影響がでれば、自然とカデッテAチーム選手にもダメージが与えられることになる。まるでドミノ倒しだ。

クラブ側からの放出作戦に加え、選手自らレンタル、あるいは移籍希望がドッと襲ってきて、例年に見ない数の選手がクラブを去っていく。もっとも、考えようによっては“少数精鋭主義”作戦と呼べないこともない。将来を期待される選手だけが選ばれてクラブに残り、将来性が見られない選手たちがクラブを去る。だが、そういう都合良くいかないから、昨シーズンのバルサBやフベニルAチームの不振がある。期待の右エストレーモ選手トニー・カルボは、すでにクラブを去って行ってしまった。彼のあとに続くはずの右エストレーモ選手カルラス・コトもクラブを去っていった。そして、イングランドからは合法的な人さらいの魔の手が、16歳前後の選手に襲いかかる。ボージャンのあとに続くはずだった期待のデランテロ、ダニ・パチェコは、いつの間にかリバプールの合法的人さらいの魔法にかかってドーバー海峡を渡ってしまった。


バルサインフェリオールカテゴリー(2)
(07/08/02)

ひっそりとクラブウエッブページ上でアモール解任が公表されてから10日後、カンプノウ内で派手な記者会見が開かれた。ペップ・グアルディオラの監督就任記者会見。これまでバルサB監督の就任記者会見というのを見た記憶はないし、たぶんこれが初めてのことだろうと思う。しかも中途半端な記者会見ではない。まるでクラック選手が入団してきた時のような“関係者全員集合”の記者会見。ペップを中心とし、その左右にラポルタ会長、チキ・ベギリスタイン、アレサンコが並び、彼らの前の記者席最前列には10人近くのクラブ理事会員が肩を並べて座っている。そして50人以上はいると思われるジャーナリストやカメラマンたち。こりゃあ、凄いぞ。

「監督としては未知数の自分に、一つのチャンスを与えてくれたことに感謝している。ゼロからの出発、だがすべてうまくいくという自信はある。もちろんカンテラ選手たちの成長を助けることがベースとなるが、最大の目的はバルサBのカテゴリー昇格。」
ペップの最初の言葉。そして彼らしい言葉が続く。
「バルサのフィロソフィーは誰よりも理解しているつもりだ。このチームの最大の目的がカテゴリー昇格にあること、つまり勝利し続けることが最大の目的となるが、それでもクラブのフィロソフィーを捨て去ることはできない。攻撃的なフットボールを展開すること、それが可能となるように指導していきたい。」

今年の5月頃だったか、バルサBの新監督候補に彼とルイス・エンリケの名前が上がったことがあった。その時、果たしてペップはどうだろうか?、というような疑問符がつくコメントをこのコーナーで書いている。それはまさしく、ペップは誰よりもクライフ・フィロソフィーを持っている人物だと思ったからだ。そしてそのフィロソフィーをこのカテゴリーで実践していくのはとてつもなく難しい。

スピード豊かなパスをワンタッチ、あるいはツータッチによるボール処理で展開すること。もちろん走るのは選手ではなく、ボールそのものでなければならない。ボール支配をモットーとするフィロソフィーはデフェンサ選手といえど例外とはならず、攻撃の起点は彼らからのボール処理によって始まること。左右に開いたエストレーモ選手たちはラインに沿うように位置し、デランテロセントロ選手は、セントロカンピスタたちが相手ゴール前に食い込めるように、スペースを作ることを心がけなければならない。エトセトラ、エトセトラ・・・。

これまで何回か、バルサ以外のチームによる三部リーグの試合を見るチャンスがあった。三部リーグの選手たちはフットボールで生活することはできないから、昼間は仕事を持っているのが普通。仕事が終わりグランドに集合し練習するが、照明灯設備がないところもあるようで暗くなってボールが見えなくなったら終わりということもあるらしい。グラウンドは総じてひどい状態であると思った方がよい。一部リーグで使用しているそれに比べればとてつもなく狭いし、芝も荒れ放題というところもある。いや、芝があればまだ良い方だ。ところによってはまだ土のグラウンドもある。そういう環境のところでアウエーの試合をおこなうことになるペップチームだが、上記のような理想的な試合展開をおこなことは、それは・・・アルゼンチン人選手レオ・メッシーに手を使うなと要求することと同じぐらいに難しいことだ。

だが、そんな不安があるにもかかわらず、ペップという“名前”が多くのバルセロニスタに希望というか、野次馬根性というか、そいう刺激を与えてくれるのも確かなこと。彼を新監督に任命したラポルタの狙いはそこにあるとはわかっていていも、ベンチに彼が座っているということだけで、試合を見に行きたい気分になる。15年ぐらい前にカンプノウにおける彼のデビュー戦を目撃した自分としては、ミニエスタディにおける彼の監督デビュー戦も見に行かなければならない、と、同じように考えている人も多いだろう。

スエルテ!ペップ・グアルディオラ監督!


バルサインフェリオールカテゴリー(1)
(07/08/01)

ギジェルモ・アモールの解任は、数行の、それも実に簡素な文章でクラブオフィシャルページのみで発表されている。そのタイトルも実に簡潔というか、まったく素っ気ない。
“契約切れ、ギジェール・アモール”
19年間にわたりバルサのユニフォームに袖を通し、ラポルタ政権の誕生と共にカンテラ組織の中心人物としてバルサに戻ってきた人に対する別れ方としては、非常に寂しい。クラブ最高責任者であるラポルタが記者会見を開いてアモール解任を説明するわけでもなく、ましてアモール当人による“お別れ記者会見”も開かれずじまいだった。少なくとも、その107年の歴史における“レジェンダ”としてクラブ史に残る人物に対してとるべき態度ではない。

だが“レジェンダ”アモールに対する対応の悪さは、ラポルタを筆頭とするクラブ理事会のみではない。スポーツ・ディレクターであるチキ・ベギリスタインも例外とはならない。

「もう2年前から、クラブ内でおかしな立場に置かれるようになってしまった。したがって今年の6月30日付をもって切れる契約に関しても、どうなるのかという不安がなかったわけではない。だが、いつまでたってもクラブの方から何も言ってこないので、契約切れとなる2日前にチキに会いに行ったんだ。そしてその場で初めて、彼らに契約を延長する気がないことを知らされた。」
あるラジオ局のインタビュー番組を聴いていたら、このように語っていたアモール。そりゃないだろう、チキ・ベギリスタイン。長年にわたってクラブに貢献してきた人物に対する適切な対応ではない。さらに驚くべきことに、すでに1年前からシウダ・デポルティーバの最高責任者という肩書きもなくなっていたと語るアモール。では、どういう仕事を任されていたのかというと、バルサCチームのお手伝い役だという。このことは簡素な表現でさえクラブオフィシャルページで発表されていない。

ラポルタ政権が誕生した2003年から、カンテラ組織最高責任者となったコロメールとコンビを組み、バルサインフェリオールカテゴリーの面倒を見てきていたアモール。そして彼の立場がおかしくなったという“2年前”というのは、奇しくもルセー派のコロメールが解任された年でもある。

いわゆる“窓際族”となって過ごしていたここ2年間となるが、言っては悪いがこの人は不思議とこういうイメージが似合ってしまう。時代劇で言えば、藩のために命をかけて頑張ってきた中堅侍が、無理矢理“お家断絶なり!”と悪徳代官にコケにされてしまうような、そんな悲劇の準主役が似合う人だ。そう、アモールには悲劇が似合う。

1991年、ユベントス相手のレコパ準決勝。スキラッチをぶっ倒してカード制裁を喰らった彼は、マンチェスター相手の決勝戦に出場できなかった。その翌年、ベンフィカ相手のコパ・デ・エウロッパ準決勝。この試合でもイエローカードをもらってサンプドリア相手の決勝戦出場に涙をのんだアモール。それから2年後、ようやく出場可能となったミラン相手のコパ・デ・エウロッパ決勝戦では、惨めな大敗を喫してしまった。そしてナミダナミダの退団記者会見を開いたのは1998年、バルサ2年目監督のバンガールが、アモールを計算外選手として通告したときだ。

当時、この突然の退団通告に怒り狂った人物がいる。バンガールを“ヒットラー”に例えて批判したぐらいだから、よほど怒り狂っていたのだろう。その人物はヌニェス政権に対する野党グループ“エレファン・ブラウ”のスポークスマンだったアルベルト・ペリン。バルサB降格の責任をとって、もうとっくに辞任しているかと思ったこのカンテラ最高責任者が、奇しくもアモールの延長契約反対の人物の一人となった。

バルサBカテゴリー降格、バルサC消滅。その責任を辞任という形でとった人は、今のところ誰一人としていない。背広組最高責任者ペリン、現場最高責任者アレサンコ、昨シーズンと同じように今シーズンも同職についている。そしてクラブを去ることになったのはアモールだけだが、まるでラ・マシアの歴史を繰り返すように彼の後に登場して来た人物がいる。バルサB新監督に就任したペップ・グアルディオラだ。